えこひいき日記

2006年12月22日のえこひいき日記

2006.12.22

編集さんのお勧めで漫画の『のだめカンタービレ』16冊を読んでみた。スランプ中に読んだので徹夜になってしまったのだが。
面白い。笑える感じと音楽に対する真剣な感じとのバランスが心地よい。音楽やっている人たちのリアルな部分もありつつ、実際にはそうは行かないけどそうであったらいいなぁ、そうでありたい、という部分とのバランスが素敵なんだと思う。テレビドラマのほうも面白がって観ている。(キャストがみんなかわいい)

私は仕事で多くの音楽従事者とお会いする。大半がプロ(演奏者として、あるいは音楽教師として)だが、のだめちゃんのような音大生もいるし、音楽を生業としているわけではないが趣味というにはかなり真剣で、コンクールなどにも出ている人たちもいらしてくださる。
彼らを取り巻く環境はけして甘くはない。
私のところに来ているプロの人たちは、教えるお仕事と演奏のお仕事の両方をこなしていることが多いが、「教える」ことと「(自分が)演奏者であること」とは同じ楽器を使っていても全く違うことなので、その切り替えがうまくいかなくなったときや、そもそも「切り替えが必要」「違う能力が必要」だなんて真剣に考えてみたこともない人も中にはおられて(音楽で食べていくなら、そう言う仕事のカタチは「当然」と思ってきたがゆえに意外と「考えた事がない」という人も多いのだ)、なかなかたいへんなのである。
特にこのくらいのシーズンは、第九だ、胡桃割りだと、コンサートがたくさんある。『のだめカンタービレ』の中のプロ・オケのように常時決まった場所で決まったメンバーと練習を重ねて本番を迎えるようなスタイルだけではなく、ほぼ初対面のメンバーと指揮者で数日間(ひどいときは「数時間」と言ったほうがよい場合もある)のリハーサルで本番をこなして、また次の現場へ、というツアー、というか「どさまわり」がどんどんあったりする。移動手段も時間もなかなかハードだったりするし、宿泊場所もけしてゴージャスとはいえないし、そういうなかで自分のコンディションを保ち、気持ちが暗くならなくてすむクオリティの演奏を続けていくのは簡単なことではない。そんなスケジュールだから「ごめんなさい、レッスンにうかがう時間が今週は取れないです」と言ってくる音楽関係のクライアントが出る一方で、「もうだめです。ヘルプ!」と言って駆け込んでくるクライアントが出るのもこの時期だ。(だからこそ、普段から自分の個性やからだを知っておいてもらうことが、一助となればと思いつつレッスンをしているわけであるが)
そうでなくても、音楽家の日常は大変。真剣に音楽をやろうという人間には、生活パターンといい、考え方といい、「ユニークな人」が多い。音楽関係者だけではないが、全般的に「アート」という世界に身を置く人間にはなかなか「ふつう」な人はおらず、「ふおお、そういう考え方するですか!(*やや「のだめ」語)と言いたくなる考え方やからだの使い方の持ち主が多い。それが演技や逃避でない限り(いや、そうであったとしても)、「ユニーク」であることはけして気楽なお話ではなくて、人間関係や自己の確立、自分にあった練習方法を見出す上において苦労も多い。多くの場合はそのユニークさは時に難解ではあっても「個性」「特色」として受け止められるものだが、中には「なんでやねん!」とか「ばかかー」とかハリセン先生や俺サマ・バージョンの千秋君になって思いっきり突っ込みたい!と思うほど「不可解なユニークさ」も存在する。
でもね、まじめな話、ハリセンで突っ込んで相手がよくなってくれるのは、単に量的な努力に問題がある場合だけで質的な努力には問題がない場合だけだと思う。でも私がお会いする方々は、量的な努力はときに過剰なほどなさっているのに、質的なものが伴っていないがゆえに成果があがっていないという方が多いので「なんでやねん!」と言うかわりに「何でそう思うの?」と聞かないと話が前に進まない。「なんでやねん!」と「なんでなの?」とは、よく似ているがとても違うことだと私は思う。(でも、『のだめ・・』の中のハリセンさんは「愛」があって、よい。現実にハリセン振り回しそうなやつはねー、もっと陰険よ。まがったプライドがとっても高かったりするし)
「陰険」といえば、『のだめ・・』の中の瀬戸ゆーと君や花桜先生みたいな人は、やはり実際にいらっしゃるもので、実際に会うとけっこう強烈である。自分の音楽よりも他人の行動ばかり気にして、いつのまにか他人の頭を押さえ込むことばかりに勤しむようになっちゃった人。コンクールで生徒を勝たせることしか頭になく、すごく音は出せるけれども音楽は奏でられない生徒さんばかり育ててしまって、それを生徒さんのせいといわんばかりに怒りまくる人。「この子は才能があるんです。今はちょっとスランプなだけです」と、本当はプレーヤーとして音楽と関わる道を強いられる事が幸福ではない我が子や生徒をここに引っ張ってきた親や先生もいる。彼らは総じて「悪意」など持っていない。「悪意」で生徒やわが子を傷つけようとしているわけではなく、ただ「一所懸命」なだけだ。でもそれが時に「暴力」になる。もう音楽なんか今後二度と耳にも目にもしたくないと思わせるほど、人を傷つけてしまう事がある。だからこういうクライアントさんがきたとき、私も身を切られるほど切なくなる。

音楽の道にいて音楽を楽しむ事が、実は一番難しいのではないかと思うときがある。「自由に楽しく音楽をやって何が悪いんですか」「どうしてそこまでやらなくちゃいけないんですか」というのだめちゃんの言葉は、だから重い。真剣になればなるほど楽しめなくなってしまう、苦しんでしまうことを、何か一つのことに一所懸命になったことのある人ならきっと経験があるのではないかと思う。それが苦しくて“真剣に”なることをやめようとしたり、そのことそのものをやめようかと思いつめたりすることもあると思う。
でもね、「自由」になるのも「楽しく」ということも、けして「野放図」や「気まぐれ」という意味ではないのだ。基本や技術的なルールを体得する苦しさのアンチテーゼとして「自由」や「楽しさ」を言っているうちは、その「自由」も「楽しさ」もまだ本物じゃない。

音楽をする人たちに「からだの使い方を教える」などということもあるやくざな仕事をしていると、自由な精神を持つ音楽家から憂慮されがちなのは「演奏スタイルを“正しい姿勢”という名の型にはめられるのではないか」「型にはめられるということは、音楽の自由な表現から遠ざかり、没個性的な演奏を強いられるということではないのか」等ということである。でもそれは誤解。私のレッスンでいう“正しい姿勢”というのはカタチではなくて、動きの機能性である。レッスンは、その人がしたい演奏や音色を表現するのに、どこをどう使うべきか・・・というよりも、普段“普通”なつもりで、“自由に”やっているつもりで、実際にはどう動いているのかを再確認してみることから始まる。すると意外と思いもよらぬ妙な動きや力加減で演奏したり歌っていることに気がついたりする。余計なことをしないことで動作や呼吸はスムーズになり、単純に動きやすくなる。
それだけではなく、音が変わるのだ。いまだにそれをどう表現していいのか私自身わかっていないのだが、余分な力を排除し、その人の身体に合った使い方で演奏された音には、演奏者の音楽への意図や音楽の意思(作曲者の意図)のようなものがすごくクリアに反映されるように思うのだ。眼の前で演奏してくれる人が奏でる音楽の意味が突然「聞こえてくる」ということを、私は何度も経験している。何度経験しても、奇跡のように思う。喜ばしい奇跡。どうしてこんなに嬉しくなるんだろう、と思うくらい嬉しくなる。

『のだめカンタービレ』の中で何より素晴らしいな、と思うのは、のだめちゃんや峰君や千秋君らがみな、音楽に対して素直だということである。具体的にどういうことかというと、いい演奏ができたとき、いい演奏に出会ったときに素直に「気持ちいい」と表現していることである。人の素敵な演奏もちゃんとやっかまずに誉めるし。すごく単純であたりまえそうなことだが、気持いいと感じたことを「気持ちいい」と認められることって、凄く大切なのだ。だってさー、間違った「一所懸命」に毒されすぎた人って気持ちよく出来た演奏を「嘘だ」とか「たいしたことない」とか言って否定したりするんだぜ。無駄なことしていないからスムーズにできる“当然の動きテクニックを「そんなはずない」などと言って認めなかったりするんだぜ。ちょっとしたことから早合点して舞い上がる人間もどうかとは思うが、気持ちのよいことを「気持ちいい」と認識できる能力のない人間って、ずばり申し上げて上達しない。

練習って、むつかしいね。

以上、「スタジオK的“のだめカンタービレ”」でした。

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