えこひいき日記
2007年4月7日のえこひいき日記
2007.04.07
「ありふれた話」という言い方がある。でも、本当の意味で「ありふれた話」なんてあったりするのかな、とも思う。ありふれてなどいないかもしれない個々の体験を「ありふれた話」にしてしまうのは、無関心と、慣れと、違和感にしか反応しなくなった感受性なのかもしれない。漫然とテレビをつけていてさえ情報は外から押し寄せてくる。報道するニュースがなくなるということはないのかと思うくらい、日々事件も事故も起こる。当事者になれば「事件」も「事故」もただ事ではない。しかし当事者以外の立場であれば、多くの「事件」や「事故」の内容は「ありふれたもの」に感じられてしまうことも少なくないかもしれない。しばし記憶を支配したり、関心を捉えたりする事件ですら、その珍しさ、内容の特異さゆえに目を向けているだけ、つまりただ驚いているだけであって、本当にその内容について考えることなど少ないかもしれない。
などと考えてしまったのは、クライアントのリハーサルで『ジゼル』を拝見したのがきっかけかもしれない。
私は普段、こちらが用意した事務所に来ていただいてレッスンをしているが、事情に応じては出向いてレッスンを行うこともある。私のところに来てくださるクライアントさんは舞台やアート関係の仕事をしていらっしゃる方も多いので、必要があれば作品のリハーサルや製作現場に行く事がある。
私の仕事の場合、私自身はしたことのないスポーツや趣味、職業に関わる動きについて相談を受ける事も多い。とはいえ、どのようなスポーツや、趣味、仕事を持とうとも、関節の位置や筋肉の数や機能がそうそう変わるわけではない。それぞれの「趣味」や「仕事」という「(大きな)違い」に目を向けるだけでなく、日常生活で行う動作などには職業を超えた共通性もある。そうしたベーシックな事柄こそ「盲点」になりやすく、認識され難いゆえに奇妙な緊張やクセを抱えたままになり、それぞれの「趣味」や「仕事」の中で拡大されて問題になっていることも多いので、私の仕事では個人個人の「違い」を過剰に特殊視しないようにしている。しかし同時に、その「特殊さ」こそがクライアントにとって「日常」なので、それを理解するようにも努める。だから自分自身はしたことのない仕事やスポーツに関することでも、仕事上必要があれば資料を集めたりビデオなどを見ることなどもする。ただし入り込み過ぎないように。クライアントと「同じ」情報量を持ってしまったり、「同じ」視点に立ちすぎると、かえってクライアントが問題視していることの真意が読み解きにくくなるからだ。
そんなわけで、いくら仕事はいえ、中には個人的には皆目興味が持てない本やビデオを見なくてはならないこともあるのだが、アート関係のお仕事は楽しい。今回の『ジゼル』も、リハーサルを拝見する機会を得て改めて考えたこともたくさんあるが、そのベースは私個人の趣味的経験(『ジゼル』は何度も舞台やビデオを観た事があるし、少しだけ自分も踊ったことのある作品だ)にもあるので、「楽」でもあるし「楽しく」もある
「ありふれた話」と似たニュアンスで使われることもある言葉に「古典的」というのがある。そういう意味では『ジゼル』はまさに「古典的」である。古くから踊られているバレエ作品であるという意味でも「古典」だし、内容も「古典的」は話である。
『ジゼル』は、村娘ジゼルがハッピーな様子で舞台に登場するシーンから始まる。彼女がうきうきとしているのは恋した男性がいるからだ。しかし恋人アルブレヒトは実は貴族の子息でしかも婚約者がいる。そのことを、狩りに来た貴族の一考が彼女の家に立ち寄ったことから知ってしまう。そのショックのあまりジゼルは狂乱し、死んでしまう。その地域では、結婚前になくなった娘はウィリーと呼ばれる幽霊のような存在となり、男性を取り殺してしまうと信じられていた。ジゼルも死後ウィリーとなる。墓参りに来たアルブレヒトをウィリーになったジゼルは躍らせて取り殺すのが運命。しかしジゼルはアルブレヒトの命を助け、夜明けとともに消えてしまう。
「貴族」とか「ウィリー」とかいうといかにも御伽噺であるが、普通の女の子と大金持ちの息子との恋なんかは連ドラのネタとしては今も健在である。良いか悪いかは別として、いわゆる「二股」をかけたアルブレヒトの行為は、けして誉められたものではないとはいえ前代未聞と断罪できるほど悪党ともいえない。婚約者からジゼルのことを「彼女はなんなの?」と問い詰められて、うろたえて「いやいや、あの・・」などと誤魔化す姿はかっこよくはないけれども、死ぬほど悪者というわけでもない。ジゼルの恋の仕方は、可愛いいけれども、あまりにも一途で、周りが見えていなくて、どこか恋の恋している気配もある。ジゼルとて、恋人の目の前で狂乱して死ぬ気などなかったのかもしれないけれども、結果的に、死んでしまう。唐突な恋の終わりと、生死の分かれ目。
私のクライアントさんたちが踊るのは、ウィリーになったジゼルとアルブレヒトのパ・ド・デゥ。ウィリーとなったジゼルは相変わらず乙女の風情ではあるが、子犬のように跳ね回る乙女ではなく、どこか悲しげでもあり、悟っているようでもある。
リハーサルに行く前に、スガシカオや椎名林檎の恋愛ソング(正確には「恋愛その後」を歌った曲)を聴きながら考えた。
自分のせいで死んだかもしれないジゼルの墓参りに行こうとするアルブレヒトって、勇気あるな、実はいい人かもしれない、などと。自分がアルブレヒトだったら、自分のせいで死んだかもしれない恋人に死後間もない時期に平気で「会いたい」などとは思えない。彼が墓参りに行く心境は、積極的な意味で「ジゼルに会いたい」のかというと、少し違うと思うのだ。会いたくないのではないけれど、会うのが怖い、と思うのはむしろ自然ではないだろうか。でも「会うのが怖い」「きっと恨まれている。許してもらえないだろう」と思うのと同じくらい「謝りたい」「許されたい」とも思うかもしれない。アルブレヒトは、やはりどこかピュアな青年だし、カタチはどうであれジゼルのことを本当に愛してもいた。だから「会う怖さ」よりも「(怖くても会いに)行く」気持ちになったのではないか。そう考えると、彼を取り殺そうとしてやってくるウィリーの団体は、彼の心の中にある「ジゼルに対する恐れ」の化身でもあるのかもしれない。「ウィリーに命じられて倒れるまで踊る」アルブレヒトは、いわば自分の良心の呵責によって責められ、倒れるのかもしれない、などと。
一方、私がジゼルだったらアルブレヒトに会いたいかな、とも考えた。気持ちは複雑だが、会いたい、と思うような気がした。会って、ちゃんとさよならが言いたい。それは相手を「許す」というのとは少し違うかもしれないけれども、でも相手を責めても恨んでももう元には戻れないし、自分の過去も変えられない。だから、もしアルブレヒトに会うことで何かできることがあるとするなら、アルブレヒトを「許す」ことがジゼルが「許される」ことでもあるような気がするし、「ちゃんとさよならする」が最後に出来るせめてものことのような気がするかもしれない、などと。そうすることで自分も「成仏(?)」したいと思うかもしれない、と。
生きていたときのジゼルとは違って、ウィリーになって登場したときのジゼルは、アルブレヒトを見た瞬間から「これがほんとうのさようならの始まり」であることを知っているような気がする。だから会えて嬉しくても、同時に身を切られるほど切なくもある。でも死後のジゼルは「ショックで死ぬ」などという逃げ方はもうしない。
本当に「死ぬ」というかたちではなくても、例えば別れ際にひどいことを言って走り去ってしまったとか、物をさんざんぶつけたり壊したりしてそれっきり、というような別れ方をしてしまう感情的な女の子って、きっと現代でもいると思う。そういう終わり方をしてどこか後味が悪いような気がするし、時間がたってその時のことを忘れた振りをしても忘れられないような気がする。時間が忘れさせてくれると思い込もうとしたり、「あの恋は本気じゃなかった」などと思って自分を痛みから救おうとしても、救いきれないような気がする。それどころか「終わらせていないことがら」は一種不滅なのである。時を超え、姿を変えて何度も化けて出てきそうな気がするのだ。それこそウィリーのように。あるいは、自覚がない故に解決されないクセや思考パターンのように。
本当に恋をして、本当に恋を終わらせるのって、言葉で言うほど簡単じゃない。でも、ビジュアル的にも魅力的なクライアントを観ていて、この二人なら、このピュアで切なくて簡単じゃないことを、「ありきたり」ではないカタチで何か表現してくれるかもしれない、と期待している自分がいる。そういうリハーサルって、楽しい。「プリエに苦悩を込めろ」とか「後姿で表現しろ」とか、散々無理も言っちゃうんですけれどね。
リハーサルから帰って来て、別のクライアントの舞台リハーサルのことを考えた。こちらはジャン・ジュネのテキストをダンス化するというプロジェクトなのだが、ある意味『ジゼル』とは対極的。
しかし本当に「対極的」なのか、などとも考える。ぬぬぬ。