えこひいき日記

2007年4月25日のえこひいき日記

2007.04.25

週明けに5回目の連載原稿を正式に出し終わる(掲載は26日からの予定)。やれやれ。残すところ連載もあと一回。なんか、何も書けないまま終わっちゃいそう。「何を書く」というものでもないのだから、当然なのだが。でも、今はまるで書きかけの遺言を残したまま旅立たなくてはならなくなった人みたいな心境だ(例えが悪すぎ??)。

今回、連載で取り上げたのは「カルチャー・ギャップ」について。巨大なテーマなので、何所からどのように書くか、どのように「カラダ」の話として書くか、大変に迷った。例によって、原稿としてお目見えさせていただいたことは氷山の一角。振り返れば没ネタの百鬼夜行である。没ネタ大行進になることをわかっていて、4,5千字でまとめられるわけがないテーマをあえて選んだ私が悪いんである。でも、書きたかったんだもん。
連載も終わりに近づいてくると、自分が選びたくなるテーマがますます「遺言」じみてくる。書き手としての自分に暗に期待されているであろうことが気にならないでもないが、そういうことはもうどっちでもいい感じになってくる。「カラダ」とかいっているけれど、私が言いたいのはそういうことじゃない、ということもはっきりしてくる。自分が言いたいことを言う、書きたいことを書く、そのために言葉を真剣に選ぶ(書かない、ということをも含めて)、わかってもらえない人にはわかってもらえなくてもいい(変に「わかりやすく書かなくちゃ」とか思わなくていい)みたいな心境になってくる。やけになっているのではない。単に少しだけ、「腹が据わる」のだ。何か思う事があり、それを伝えたい、という気持ちがあるのだから私は書くのだろうが、「伝わらないこと」を恐怖しすぎたり、他人を気にしすぎると逆に伝わらなくなるし、自分でも何がいいたかったのだかわからなくなってしまう。私は単に自分の身をさらしていればいいのだ、と遅ればせながら思っただけのことである。そうか、最初からダイレクトに「遺言」製作に取り組めばよかったのだ。
というか、書きたかったんだわ、「遺言」が。「遺言」になりえる文章が。

「カルチャー・ギャップ」というものについて徒然考えているときにはそういうクライアントがやってくるもの。先日もアメリカからのクライアントが来場し、さんざん「カルチャー」と「ギャップ」について話して盛り上がっていた。楽しい。
また、昨日は昨日で京都大学の人文研アカデミーの講演『ヨーガとはなにか その目的と方法』を聞きに行って、なかなか面白かった。講演をしてくださったのはスワーミー・アーナンダ師という方だったのだが、実に基本的なことをおっしゃっているのだが、とてもわかりやすい。しかし同時に、基本的なことほど言語化しづらいこと、しかし基本的なことを話すということは重用かつ新鮮なんだな、などと思いながら話を聞いていた。もちろんそうした「基本的」にして「本質的」な話に何らかの説得力、求心力を与えるのは語り手の力、魅力なのだと思うが。
例えば、情報としては既に「文字にしてそこに書いてあるじゃん」ということでも、声に出して伝えるとまた違う、ということがある。まがい也にも自分でも本を書いていたりするので思う事があるのだが、そこに文字になって書いてあることでも「読んでもらえない」ということがあったりする。それが自分としてはすっごい心血注いだ部分であったりすると、大変にへこむのだが、でもその人が自力では読み取ってもらえなかったことでも著者や「わかっている人」に聞かせてもらうと急にその一文が「読める」ようになる、ということがあったりする。特に既にそこにあった文字情報以上の解説を加えたわけでなくても、何かが伝わるようになる、ということがあるのだ。多分、お芝居のセリフや、踊りでも同じ事を感じた方は少なくないと思う。あるいは、日常的な動作においても。そこで何が変わるのか、何が加わるのか、何がそれを伝えるのか、まだ私にはうまく表現できない。しかしそこにある何かは認知していて、それを仮に「力」とか「魅力」とか呼んでいるだけである。
わからないなりにわかることもある、それは、余計なことをしていては伝わらない、ということ。私に出来る唯一の努力は、自分のすべきことに対峙するためのチューニング能力を高めることだけである。

自分のことをどうだと、何だと思っているのか、ということも一つの「カルチャー」である。だから「自分でないもの」「自分にはないもの」に触れると「カルチャー・ショック」や「ギャップ」を感じる事がある。そういうことを感じる機会は海外留学など、大きな生活環境の変化などを体験したときに多いく、また「相手に感じたショック」のように思い込みがちだが、果たしてそうなのか。私が今回連載で言いたかったことの一つはそれである。しかも「自分は誰か」という認識は、大抵切れ切れで、総合的なものではなく、切れ切れなままの自分は自分ではないことをどこかで感じながらも、「総体としての自分」を感じることやとらえることは容易ではなかったりする。ましてや言葉にすることは至難である。切れ切れな自分のほうは幾許か言語化しやすいが、それをいくら集めても「総体」にはならない。
アーナンダ師は、そうした切れ切れの自分、「苦」によって切れ切れになっている自分、「自分ではないモノ」に依存してそれを自分だと思っている自分(例えば「自分は教師だ」という認識。確かにそうだが、でも「教師」が自分なのではない)を、統合させるための一つの技法が「ヨーガ」である、と言った。例えば「肉体」であるところの「自分」と「思想」であるところの「自分」を、「思想」であるところの「自分」と「行為」であるところの「自分」を、身体的技法や瞑想、哲学や宗教的なアプローチで結び合わせて「自分そのもの」に近づこうとする。だから「ヨーガ」は「ひとつであって多くなのだ」と。
「ヨーガ」もひとつの「カルチャー」であり、私が仕事としている「アレクサンダー・テクニック」もひとつの「カルチャー」である。アーナンダ師もひとつ(一人)の「カルチャー」であり、私もそうである。私のところに来てくださるクライアントさん一人一人もそう。ただ、私にとって「アレクサンダー・テクニック」は大切なものではあるが、「私そのもの」ではない。恐らくアーナンダ師にとっての「ヨーガ」もそう。私のところに来てくださる方にとってもそうだと思うし、そうであってほしいと思う。自著にも書いていることだが、何かに「自分自身ではない何かに依存して生きる」ということは、「守られる」ということでもあるのだが「阻まれる」ということでもあるのだ。その危うい境界線を潜り抜けられるのは、誰あろう「自分自身」だけである。
自分がフィールドとしていない「カルチャー」、他者という「カルチャー」に触れて、感じることは嫌な意味での「ショック」だけではない。そのことを本当にありがたいな、と思う今日この頃である。

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