えこひいき日記
2007年7月17日のえこひいき日記
2007.07.17
祇園祭巡行の日。自宅のベランダから鉾をしばし鑑賞し、仕事に出る。そう、お休みを頂いている期間中なのですが、仕事をしてしまいました。ぐすんぐすん。くそう、今年も巡行を全部観ることが出来なかった。
ところで、先日歌舞伎の話を書いたらば、その後同じ公演に出演されている某氏が怪我をされたとのニュースを聞いた。よってその方が演じられていた役は代役が努めることになったという。
実は先日観にいったのは「昼の部」の演目だったので、その後に日を改めて「夜の部」を観覧するつもりでチケットを買っていた。結果的に、疲労と、多忙からその公演に行かなかったのだが(チケット買っていたのに!高いチケットなのに!)、某氏が「夜の部」で演じるはずだった役の代役が何と片岡仁左衛門さんがつとめられると聞き、つくづく惜しいことをした、と思った。うーん、仁左衛門さんの『女殺油地獄』だったら、観たかったなぁ。私がたっかいチケットを無駄にしてまで自らの疲労と多忙を優先してしまった理由の一つには、某氏のことがある。
某氏はとても美しい役者さんである。彼の襲名披露公演にも足を運んだし、少し創作的要素の入った舞台や、今回の公演の「昼の部」の演目に出演されたのも拝見している。「絵になる」という言葉が何の違和感もなくはまるくらい、この方の立ち姿は美しい。
でも、申し訳ないのだが、彼が演じる役がどれもカルい。役柄がいわゆる「カルい」人物の役、というのではない。稀代の色男や、ヒーロー的な人物を演じているのだが、何だか私にはカルくみえてしまうのだ。だから拝見する度に悩む。なんでやろ、と思う。セリフを間違えたわけではない。所作を間違えたわけでもない。存在感がない役者でもない。のに・・・と。
先日、私は片岡仁左衛門さんの「知盛」を指して「美しい立ち姿」と書いた。そして先ほど某氏のことを指しても「立ち姿は美しい」と書いた。でも、その「美しい」という言葉の意味するところ、内容は異なる。某氏の美しさとは、何よりもビジュアルであり、見目形のかたちである。しかし仁左衛門さんの美しさは「そこにそのかたちを与えているもの」の美しさである。
この話をクライアントさんにすると「やはり人生が出るんですかね」という応えが帰ってくる事が多い。私も、実はそう思っちゃう。でも、それをクライアントさんほど素直に言ってしまえない自分がいる。なぜかというと、その「人生」が「出る」って、なんなんだろう、どういうことなんだろう、と考えてしまうからである。因果な仕事をしているせいだろうか、普通に、直感的に「人生が出る」と言ってしまうことを、その言葉に帰着させて片付けてしまうだけでは、納得できない自分がいるのである。それ以外の言葉で、それがどういう「感じ」なのかを表現できなくては、それがどんな「感じ」なのか本当にはわかっていないと思うのだ。
だからもうしばらく考えないとわかんないんだけど、それより先に感じてはいるんだよね。