えこひいき日記

2007年8月14日のえこひいき日記

2007.08.14

お盆休みにたどり着いた。まさしく、「たどりついた」という感じ。自分でいうのもなんだが、私、多分、仕事しすぎ。しぬかと思った。毎日クライアント業務しかしていないと、さすがにそれはストレスに変わる。「クライアント」あるいは「クライアント業務」が、イコール「ストレス」というわけではないし「嫌い」というのでもない。納得してやらせて頂いている仕事だが、量とバランスがこうなると、たとえ好きなことでもしんどくなる。自分の中の「労働組合」が過激にスローガンを叫びながらストをおこしそうになる。自分の仕事が丸ごとばかばかしいものに思えてくる。
わかっている。これは自分のマネージメントの問題なのだ。整理できるものは整理し、後回しに出来るものはした。その上で、ハードでもこれ以上落とせないと判断したのは自分なんだから、その中でよりよい仕事のやり方を尽くすしかない。
ともあれ、そうして自分が崩壊してしまう前に、なんとかありがたくもお休みにたどり着けたのだが、休み入りの日、ご飯も食べずに12時間ノンストップで眠ってしまった。驚いた。子供じゃあるまいし、こんなに眠るとは思っていなかった。目が覚めたときは自分の寝室だとわかりきっているものの「ここはどこ?」という感じであった。

目が覚める直前、私はS氏という作家さんが出てくる夢を見ていた。正確に言うと、私がS氏の生首を抱きかかえてにこにこしている、という、考えようによってはグロテスクかつ失礼な夢なのであった。まあ夢なのでお許しいただきたい。それに夢の中のS氏の首はまるで彫刻のように涼しげで、血なども全く付いていない、オブジェのように美しいものであった。ちょうど、S氏の遺作となった『高丘親王航海記』の最後に、主人公である高丘親王の遺骸の描写がある。「モダンな親王にふさわしく、プラスティックのように薄くて軽い骨だった」とあるが、彼の首もそんな感じであった。
S氏が私の夢に出てくるのは2回目である。ただ、夢に出てきてくださったのはごく最近である。S氏が59歳という若さで亡くなってから、ちょうど今年で20年になる。私が彼の著作を夢中になって読んでいたのは、だから20年以上前のことである。夢中になって読んでいた頃には一度も夢に出てくることなどなかった。でも、もしその頃出てきてくださったとしても私は困ったと思う。恐縮しちゃって。私、本当に好きになったダンサーとか歌手とか作家には、「サインもらいたい」とか「一緒に写真とりたい」などとは何故か思わないのである。「その人の作品だけで十分」というのが偽らざる本音で、下手にご本人に近くにこられても私は何をしたらいいのかわからなくなってしまうような気がするのだ。このS氏にしろ、ダンサーのJ氏にしろ、ある意味私の人生を変えた人たちなのだが、なぜか一度も「会いたい」と思ったことはなかった。不思議なくらい、その作品で満足だったのである。

でもS氏が亡くなった時、「もうこの人の最新の文章が読めないのだ」と思ったら、身体の中で何かがめくれ上って崩落するような感覚が生じ、本当に本当に寂しくなった。私にとってS氏の「死」とは、そういうものであった。いや、S氏が「生きている」ということが、そういうことだった、というべきであろう。

そのS氏が初めて私の夢の中に出てきたのは数ヶ月前のことであった。その時の私の状態は最悪であった。どうしたらいいのかわからなくて、ぐれてみたりしても楽になれなくて、苦しんでいた。食べても吐いてしまい、眠ろうとしても涙が止まらず、泣き疲れて気絶するように眠ってしまうという日が続いていた。
そんなときに不意にS氏が出てくる夢を見た。S氏は、40歳代くらいのときの姿をしていて、地下鉄の構内に延々と続く書店や文房具屋を歩いていて、私は彼の後を歩いている、というそれだけの夢だった。夢から覚める間際に彼は一度だけこちらを振り向いて「ついてきているね」と一言だけいった。それだけの夢である。
そんな夢をどうして見たのか、その夢が私にとってどんな意味を持っているのか、わからない。唐突であり、突然であった。彼の著作をどんどん読んでいた時期ならいざ知らず、その時には全く夢にも見なくて、どうして死後20年経った(20年経っていることに気がついたのも、その夢の後だったが)今なのか。考えるのが少し怖かった。意味を持たない、ただの偶然、ただの妄想、ただの夢、戯言だと思ってしまうほうが楽だという気がした。でも、私自身、知っている。「意味がないと思いたい」と思ったこと自体に既に意味があることを。その夢自体がどうというのではなくて、それをどう感じるかが意味なのだということを。

夢のこともあったし、ちょうどS氏の命日に東京に行く用件もあったので、なんとなく北鎌倉にあるS氏のお墓参りに行くことにした。
早朝京都を出て、新横浜経由で北鎌倉に向かった。朝早かったせいで、うっかりしてお花も用意していなかった。駅構内で買えるだろう、と思っていたのだが、それは東京駅構内の記憶に基づいて思ってしまったことで、うかつなことに新横浜駅のお店はずっとシンプルであることを想像していなかった。ゆりの花を買おうと思っていたのに。幸い私の鞄の中には「お参りセット」が常備されているので、お線香は差し上げる事が出来た。お線香はその時々でいろんなものを持ち歩いているのだが、その時持参していたものは私の一番好きなQ堂の『金鳩』というものだったので、ちょっとほっとした。
ゆりの花を持って、S氏のお墓参りをしたことは、過去に2度ある。いずれも20年近く昔のことだ。一度は命日で、一度はそうではなかったが、いずれも暑い頃だったと記憶している。北鎌倉駅から歩いていくのであるが、その道のりは結構あったような気がしていた。しかし今回歩いてみると、あっけないほどすぐにお寺に着いてしまった。暑い道を延延と歩いたような記憶は、なんだったのだろうか。お寺に入ると境内には見覚えがあり、お墓の場所にも記憶があった。とはいえ最初にきたときも、あっけないほど簡単にお墓にたどり着くことができたのだが。私には妙な勘が働くときがあって、「こっちかな」と思ったら大抵その通り、ということがある。確か20年前もその勘に基づいて歩いていったら目の前にS氏のお墓があったのだ。
お墓には、既に真新しいお花が供えてあって、その花束にはゆりの花が入っていた。お命日の朝だし、奥様がお供えになった花なのだろうか。不思議なもので、見渡すとその近くのお墓にはゆりの花が捧げられているのが多かった。他のお墓は菊などが多かったのだが、でもゆりの花はS氏に似合うような気がするので「よかった」と思うとともに、ある意味当然のような気がした。
駅から思いのほか近かったこともあり、お墓参りはあっという間に終わった。どうということがあったかといえば、どうということはなかった。でもそれで凄く満足だった。

生首オブジェの夢を見たあとに、唐突に思った。私、自分の葬式は「お祝い」であってほしい、と。よくがんばったね、任務完了、任期満了、おめでとー!!って感じで死にたい、と思った。そういう意味では、私、まだ死ねない、と思ってしまった。がっくりきちゃった。なんてこった・・・凄く悔しい。だって、私はまだ誉めてほしい人にまだ誉めてもらえなさそうなんだもん。今死んでも、恥ずかしくて、式にもお呼びできない。悔しい。胸をはって「おめでとう!」と言われ、「ありがとう!」とお返しできるように、歩いていくしかない。

カテゴリー

月別アーカイブ