えこひいき日記
2007年8月23日のえこひいき日記
2007.08.23
夏になると放送される丸一日がかりの某テレビ番組がレッスンの中で話題にあがり、「しない善より、する偽善」という言葉について考える。「しない」より「する」ほうがましかもしれない。しかしいつでも「する」ほうが「しない」よりましなのか。偽善は、善か。偽善で私は助けられたいか。
例えばチャリティー、ボランティア、福祉など、その行為によって、あるいはそこで集められたお金によって助けられる人は確実にいる。チャリティーやボランティアは悪いことではない。しかしチャリティーやボランティアが何であるかという本質は問わず、「よい」というイメージだけを着ぐるみのように被って働こうとする何かも存在する。「よい」というのは一つの価値判断であり、力である。時には人を支配する権力にも化けうる。ある会社や企業にとっては「チャリティー」がれっきとした「戦略」になっている場合もある。それが即ち悪か、というと、そうとも言い切れないと私は思う。でも「いいことなんだから、いいじゃない」で、はたしてよいのか、とも思う。
集められたお金に罪はないかもしれない。そこで働く一人一人が発揮してくれる力は純粋なものかもしれない。だからこそ、それの運用方法がこれでいいのか、と思ったりする事がある。「いいこと」の周囲で匂ってくる何かにすごくひっかかったりする。
某テレビ番組の中で恒例化されている100キロマラソンについても、何だか疑問を感じる。あれの何がすごいのか、何所が感動なのか。「走れそうもない人が走れそうもない距離を走るという、無理をやりとおしたこと」に対し「感動」しろというのだろうか。そこにも確かに努力はある。汗はある。しかしそれは何のために流された汗であり、何のために費やされた労力なのか。感動のために仕組まれた感動に痛々しさすら感じる私はココロが黒いのだろうか。
ある方から寄せられた情報によると、もともとこのマラソン企画は、既にトライアスロンやフルマラソンに参加経験のあるタレントさんが「更なる距離にチャレンジする企画」として始まったものだという。「既にやっていることの、一歩先へ」というチャレンジであれば、チャレンジの意味もわかる。そのタレントさんもこの番組が終わっても走ることは辞めないのだろうし、企画としてそのチャレンジを見守ることへの矛盾も感じにくい。それがいつの間に「マラソンや運動などやったこともなさそうなタレントをわざわざランナーに選び、その意外性を感動に錯覚させる」企画、あるいは「本当にこのタレントがゴールできるのかどうかというはらはら感を感動にみせる番組」に変わったのだろう。それをまがい也にもチャリティーを謳う番組の中でそれを行う意味はなんだろう。
テレビなんて所詮ショー・ビジネス。そう割り切るべきなのだろうか。ビジネスが悪い、ショー・アップする事が悪い、と言っているのではない。「感動」を演出(捏造?!)するのも仕事のうちかも、というのがショー・ビジネスの世界であるとするならば、それがチャリティーとどう関わるのがベストか、と言っているだけである。例えばテレビというメディアを使って、単に募金を呼びかける情報を流すのではなく、ながーい放送時間の番組を製作する意味は何か。地震や災害に対する募金などをニュース番組などの中で呼びかけることは災害や地震が生じた都度に行われているが、そのための番組をいちいち製作したりはしない。巨大な番組制作費をかけなくても(一説によると製作費は募金額をはるかに上回るという)募金を募る方法はなくはないようなのだが、わざわざ番組にして行うのは誰のためであるところが多いのか。
「善」と「偽善」はどう違うのか。今の「これ」はどっちなのか。それはチャリティーとかボランティアだけの問題ではない。「よかれ」と思って行う全ての行為に関係する話だ。
よき人間であろうとするのは、人という存在に対する希望であり、意志かもしれない。だがよき人間とは何かを自らに問うことなしに、よき人間に見られようとしたり、よき人間の振りをするのは似て非なることだ。手っ取り早く姿勢のよい人に見られたくて、無理やりな格好を自分や他者に強いるココロは偽善ではないのか。その無理やりを努力や情熱とみなそうとするココロは善か偽善か。本当は何がしたいのか。何がほしいのか。
本当は毎日考えないといけないことなんだよね。