えこひいき日記
2007年9月3日のえこひいき日記
2007.09.03
もう9月か。今年もあと4ヶ月。おそろしい。そう思う一方で、3日前の日付が「まだ8月」であることの違和感を覚えたりする私。
「ああ、もうだめでありんす」とつぶやいてエアコンのリモコンスイッチを触ったとたん、ブレーカーが落ちた。その後も何故か自宅のブレーカーが4回落ちた。特にたくさんの電化製品を使っていたわけではないと思うんだが。ああ、やだわ。
さて、今月末は仙台の大学院で集中講義を行う。以前、短大で毎週教鞭をとっていたときに、通常のクライアント業務の傍ら毎週ほぼ1日を費やして短大に行って授業を行うのがどうにもこうにも大変になってしまい、「集中講義なら何とかお引き受けできるかもしれないんですが・・・」と言って辞めたことがあったが、なんのなんの、いざまとめて講義なんぞやろうと思うとそれも大変である。
本来、少しずつレッスンを積み重ねて体得していくべき身体感覚についての話をどう授業で提示するか。実際にある程度体験してもらわねばならないが、「体験」だけでは十分ではない。授業日程が集中していて過密なだけに、本来少しずつ体得していくべきことを詰め込むのは危険だ。危険とまで行かなくても、単に疲れると思う。疲れただけで終わるのは困る。結果的にできてしまう動作だから不問に付すのではなく、何をしているのかを認識してみること、その上で必要があればやり方を変えてみること・・・動作のしかたやクオリティーを変えることは、人の何を変えるのか、人が「からだ」について考えてみる意義はなんなのか、人にとって「からだ」とは何か、自らの「からだ」とは自らにとってなんなのか・・・そこを講義後にもちょっとだけ考えてもらえるような何か交えつつ授業を展開したいと思うのだが、うーん、しぼりきれん。実際には授業に参加してくれる受講生の顔を見てからでないと、何も決定は出来ないのだが。
でもそうやって、改めて「私のしている仕事とは何か」を考える機会をいただけることはありがたいことだ。何となく講義用のメモを作ったりしていると「書く」という作業に使う脳細胞もにわかに活発になる。(最近「日記」の更新がわりと頻繁なのはそのせいです)Web草思でやらせていただいた連載のときもそうだったが。ただ、すごく苦しくて、結果、悔しかったけれども。書いていくほどに、書けないことが見えてきて、自分を呪った。連載はもうウェブ上からは消されているので、読んでいただけないのが残念である。矛盾することをいうようだが、連載で書いたテーマについて後悔はないし、書けていないなりにも何かを書いていたとは思う。だから「読んでいただけないのが残念」などとも本心から思う。でも書ききれなかった。そのことが今もって壮絶に呪わしい。死ね、私、って感じである。ここに「みえている」ことが言葉にできない、「これ」ってどういう言葉でいうんだろう、だいたい「みえていない」人たちに「これ」をみせようとする意義はなんだ・・・妥協をしない編集さんのおかげで、「書く」ということがこれと正面から延々と向き合う作業なんだと改めて教えてもらった。感謝である。でも、書けなかった。そのことは本当に悔しい。
それともうひとつ、気がついたことがあった。
私は今まで「いかに一つ一つの仕事をちゃんとやるか」「教師としてのクオリティーを保てなくなったらその時点で仕事を辞める」という姿勢で仕事をしてきた。だから事務所も拡張しないできた。事務所を拡張し、組織化してしまうと、「仕事のために仕事をする」「組織の存続のために個人が働く」という仕事の仕方になりやすいからだ。それは仮にもひとさまに「からだの使い方」などを教える者の態度としてあまりふさわしくないと考える。多分、今後もその方針はかわらない。
でもそれだけじゃだめらしい。「一つ一つのクオリティーを保った上で、継続する」という視点にたたないと見えないことや出来ないことがあるようだ。どうやら「書く」という作業は私にとってそういう種類の作業らしい。そんなオソロシイことに私は今後手を染めるべきなのだろうか。今もって最終的な態度が決まらない。でも、結局「どうやったら書けるんだろう」ということをもう考えてしまっているような気がする。
講義のこともあるし、自分が書いた本『アレクサンダー・テクニックの使い方 「リアリティ」を読み解く』を読んでみた。あの本が出版されてからもう4年が経つ。自分でいうのもなんだが、今読み返してみて改めても「よく書いたなぁ」(いい意味で)と思う。結構いろんな事を網羅して書いているし。今での本を読んでくださった方からお便りやメールを頂く。「繰り返し読んでいます」とおっしゃってくださる方も少なくない。そうしていただくに足りる範囲を網羅していると、客観的に思う。
でも、今回改めて読んでみて「今ならこういう書き方はしないかも」とも思った。書いている内容はその通りなんだけれども、今の私だったら別の表現を採用しているかもしれない、と思ったりもした。そう思った自分に、自分の中で「季節」が移り変わっているのを感じた。あれを書いた頃の自分と今の自分は違う。変わらないんだけれども、変わっていっているのだ。
私の中では『アレクサンダー・テクニックの使い方』は「トリセツ」と呼んでいる。「トリセツ」、つまり「取扱説明書」である。それなりに網羅して書けてはいても所詮「トリセツ」は私にとって「トリセツ」に過ぎない。自分で書いた最初で最後の本が「トリセツ」ってのもなー。翻訳はもうするつもりはないし、本を出す気があるとしたら、自分の言葉で書いた本以外ないと思う。でも、このあいだ連載書いて気がついちゃったんだよね。「このままじゃ書けない」って。
「トリセツ」ではかけなかったことはたくさんある。「これ」らをどういう言葉で書けばいいのか、書けるのか、いまはまだ全然わかんない。
またそういうことを考えながら電気のスイッチ触ったら、へこむことになるのかしら。やだなぁ。