えこひいき日記
2008年7月23日のえこひいき日記
2008.07.23
朝起きて、何を見ようという意識もなくテレビをつける。あるいは、新聞を広げる。ふと、自ら流れ弾に当たりにいくように他者の言葉を浴びようとする自分に気がつく。私個人に投げかけられたのではない言葉を浴びる。テレビから。新聞から。雑誌から。強く何かを望んでいるわけではないけれど、明らかに自主的に。まるで辻斬りにあうように・・・と言うと物騒かな。辻占に遭うように。あの、交差点あたりによく手相を見る先生や占いの方が立っていて、そういう人のことを「辻占さん」と呼んだりもするが、もともとは、人が自分の意思に迷った時に外に出て、そこで偶然耳に飛び込んでくる言葉の中にある種の神託や示唆を読みとろうとする行為をも指したそうな。タロットカードみたいな感じかしら。テレビから特定の情報を得たいわけではない。ただ、自分が思うだけでは自分はわからない。「情報」に触れることで自分がどう反応するのか、自分が無意識(表の意識のその下で)に何を考えて生きているのか、知るために「辻」に出て行く。
とはいえ、「辻情報」の全てに自分が何か目覚しい反応をするわけではない。反応しようと思って反応しているわけではないのに反応してしまう言葉がある一方で、耳には聞こえているのに全く反応しない言葉もある。「聞き流す」とか「聞こえていない」と表現される状態だ。不思議なものだ。人にとって、ものが「ある」と感じるというのは、どういうことなんだろう。物質として存在するものすべてが「ある」と認識されるわけではない。情報に信ぴょう性や重要性があれば必ず「ある」と認識されるとも限らない。むしろ、やっと目に触れたものの、その中からさらに選ばれて、限られて、ものは「ある」。そこでも無意識的な選択はされているのである。
「脳は空より広い」と書いたのはエミリ・ディキンスンだったかしら。「脳は空より広い」。そう言えるのは、たぶん、自らの内部に無意識が、自らの外に無知(自分の知らないもの)が、膨大に存在するのを知った上で、モノと存在の関係を考えられる人(とき)に限られる。いや、逆なのかな。「知っている」ことの素晴らしさに酔いしれて舞いあがり、「知らない」ということを知らないから、「脳は空より広い」などというメガロマニアックな言葉を言えてしまうのかもしれない。
多くの場合、人が見ている世界は、本当に存在しているものよりもはるかに部分的で狭い。掌に収まるような大きさのコップやペンさえも、それのほんの一部しか「脳」に入れたことがない方が多いのだ。
無意識、という言葉がなかったら・・・正確には、「無意識」という言葉で表わされる状況の発見がなかったら・・他者だけではなく自分自身のことも含めて、人間の考えていることを理解するのはずいぶん難しくなるんだろうな、と思う。「無意識」という人の意識の分類がなければ、誰しも誰かにとって(自分にとっても)相当「変人」になってしまうような気がする。だって、人は自分が「していると思っている」ことを本当に「している」とは限らない。「していないと思っている」ことをしていたり、「していると思っている」ことをしていなかったり、していたとしても「そんなやり方をしているつもりはなかった」ことをしていたりするのだ。それは「本音と建前」とか、意図して行っている操作ではないから、ややこしい。自分が自分だと思っている状況なんて、意外と一部分にすぎないのだ。だって、「知っていると思っている」範囲だけが今のところ「自分」と呼ばれているに過ぎないのですもの。
私が「無意識」という言葉で表わされるような状況の存在を知ったのは、4歳くらいだった。当時の私は「無意識」という言葉は知らなかったから「ほんとうでもないけれど、うそでもないことが、ある」というふうに思っていたのだが。どうしてそんな言い方になったかというと、起こる現実に対して使える言葉は、「うそ」と「ほんとう」しかまだ知らなかったからだ。でもそんなに単純ではないことはすぐに分かった。大人の行動を見ていて、言っていることと行っていることが違っていることがたびたびあったからだ。それが「嘘をついている」のであればわかりやすい。でも、嘘ではなく、大人は本当にそれをしているつもりらしいのに、していないことがあった(逆も)から大混乱した。こういう状況を何と呼べばいいのか?とりあえず、知っている語彙と、自分の感じたことを並べて考えたセンテンスが「嘘でもないけれど、本当でもないこと」だった。
この仕事を始めて、他人に無意識に触れるようになって思ったのは、皆さん意外に(?)「いい子」なのね、ということだった。大人とか先生から与えられた「世界」を疑わない、素直な人たちがとても多いのだ、ということである。そうはいっても、与えられた世界に疑問や違和感を抱いた経験は皆無ではないのだ。でも否定するのは自分自身の方。まず、ほぼ無条件に、自分が間違っている、と思うらしい。確かに子供にとって大人の存在はある種絶対的だ。自他の区別もあいまいである。大人を疑うことは自分を疑うことになる。そうした感覚世界の中では、違和感や疑問を抱くことは自滅を意味するのだろう。それは確かに怖いことである。
だからこそ、「大人」や大人から与えられた「世界」に裏切られたと感じた時の反撃は過激だ。「ほんとう」でないなら、みんな「うそ」だったのか、と怒りをぶつける。大人だけでなく、自分に対しても。感情にまかせて。その怒りとは、恐れなのだ。そして自己愛。自分が傷つくことだけを強烈に恐れ、自分だけが不当に傷ついていると思い込める自己愛。昨今の通り魔事件を見ていると、ふとそんなことを思う。事件を起こす前の様子を周囲の人が語るに、彼らはたいてい「おとなしい人」「そんなことをする人には見えない人」だそうだ。事件の凶悪さと、「おとなしい」という印象のギャップがクロースアップされ、「どう考えていいのかわからない」という感想で締めくくられることが多い。でも、犯人が何を考えているのかわからなくて当然だと思う。彼らはある意味、一度も自分自身の考えを自ら表現したことがない可能性が高いのだから。それは彼らが一度も言葉を発したことがないとか、そういうことを言っているのではない。やや過激な言い回しかもしれないが、大人が示した「世界」を自分にコピペ(コピー&ペースト。「コピー」と「貼り付け」。)することで、大人から攻撃されない自己を形成し、それを持って自己の維持とした可能性がないとは言えない、と言っているのだ。自分がそう思うからそうする、というよりも、周りの合わせてようする、という、自覚なき選択で生きてきた要素が高いように思うのだ。
よく、こうした犯罪が起こった後に、犯人が学生時代の卒業文集にこんなことを書いていたのに、などと紹介されることがあるが、書かれていることが本人の「本当の意思」であった可能性はどの程度あるのだろう。書かれて、カタチになって、残るものだから「確かっぽい」「本当っぽい」と感じるかもしれないが、ある時期に書けといわれて一斉に書く文章の中に果たしてどの程度の真の意思が反映されていたと考えるべきか。もちろん、ひとかけらも意思の反映がないとは言わない。でも、正確にそこから何かを読み取るには高いアナライズ能力が必要とされるような気がする。
アナライズする能力。それは、本人が認識した「空」が、空や、ほかの人が認識する「空」とどういう関係があるのかを読み取り、なぜそれを「空」と思えるに至ったかを推理できる技量のこと。自分の中で客観と主観を区別しながらも隔絶せず、行き来できること。でも、簡単なことではないわね。自分の「空」がなんで「空」と認識されていなのかも、よくわからないといえばわからないんだもの。
そういえば、押井守という監督が新作アニメ映画の会見の中で、最近の「若い人」を指して「自分の人生を留保したがっているように見える」と言っていた。自分が何者であるのか、何者になるのか、限りなく留保したがっているように見える、と。
押井監督の言った「若い人」がいわゆる何歳ぐらいの人を意味するのか定かではないが、実年齢がいくつかであるかを問わず、自分がいつまでも「若い人」であろうとする人は確かに増えているように思う。そして彼らが「若くあろう」とする目的の一部は、確かに「人生を留保するため」なんだと思う。現に、私のクライアントさんの中にもそれを公言してはばからない人が何人かいる。自分の肉体を、若く、美しく保とうとする理由は、自分の「人生」のを歩むためではなく、「人生」の進行を止めるためだと。本人は「将来、何かができる可能性を維持するため」とも言う。でもそれは、「何か」が何であるかをわかってなされている発言ではない。わからないものを、わかろうとして、されている発言ですらない場合がある。むしろ永遠にわからないでいたい、実は、何も自分で決めたくない、という意味だったりする。だってわかったり決めたりしたら、責任が生じちゃうじゃない、選び取った途端ほかの可能性は消えるのは怖いじゃない、選んだものが間違っていたらどうするの、間違うくらいなら、選ばない・・・だったりする。
私自身40歳になってみて、おそらく私の人生にもう他の選択はない、自分の人生がこれしかできずに終わるだろう、と思い、それを、怖い、と思ったことがある。40年も生きてみて、これだけしかできないのかよ、4歳のときに思ったことに多少の色が着いただけじゃねーかよ、と思ったら、心底がっかりもした。でも、人生をとめたいとは思わない。むしろ進めたい。その時点で、私はある意味、ただ「若くあろうとする」ことを放棄したといえるのだろう。私の中身(?)と見かけがどう見えようとも見えなかろうとも。
若さや、健康を保つこと。一見無条件に「よいこと」のように思えるかもしれない。そのことが、私は時々恐ろしい。それは「空」が何であるのか、それが自分のどこにあるものなのか、内なのか外なのかを疑わずに生きていくのと同じことだ。
手で触れて、生きて目の前に存在する人間や、人間の身体と対していて、日々疑問に思う。これはどの程度本人にとってリアルなのか。ほんとうのこと、ほんとうのもの、って何なのか。その周辺のものに触れれば触れるほど疑問や謎は増えていく。それでも、それ自体が絶望に変わることはない。私に絶望を感じさせるのは、むしろリアルの固定化である。絶望とは、疑えず、考えられず生きていくことのような気がする。
「脳は空より広いか」。私はその答えを知らない。絶対的な正解などないような気もする。脳の中の「空」と、目の前の空と、どちらがほんものですか、と聞かれても、私はやはり答えを知らない。ただ、空を見上げて「これはなんでしょ?」「何かはわからないけれど、何かなんだろう」と思う人がいる傍らで、空を見上げても「なにもないじゃん」と思う人もいるかもしれない、とは思う。そして、「ほら、これが空だよ」と誰かに示してもらって「空」を知る、空が「空」なんだと知る、ということもわかる。示されたものが自力で見つけたものじゃないから、実力じゃない、知った「空」も本物じゃない、なんて私は思わない。知ることの本質は、そういうことじゃないと思う。でも同時に、「そうか、“空”なのね、ふーん」で終わったとしたら、それもまた「知った」というのではないな、とも思う。
脳の中に「空」を持つために、私たちは何と手間暇をかけることだろう。生きているだけで、生きていることのなんたるかがわかったらどんなに楽だろう、と思う。生きているだけじゃ、しているだけじゃわかんないから、私たちはわざわざやる。学問を。芸術を。書くことを。物語ることを。「語る」ことが「騙る」こと、「創る」ことが「偽る」ことになるかもしれない恐怖と闘いながら。
その時、脳は空より広いのかな、それとも・・・