えこひいき日記

2009年1月24日のえこひいき日記

2009.01.24

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。今年も良い一年になりますように!

この年末年始はまじめに風邪をひいてしまった。2008年は風邪というものをひかずに何とか仕事を納め終えたと思っていたら、終わったとたんに風邪をもらい、寝ていて、起き上がったらもう仕事始めの日だった、という感じである。
やっと元気になったわ、と思った矢先、仕事始めで6人のクライアントを連続してみたら、声がバイオハザードに出てくるゾンビ(?)みたいになってしまった。
仕方ないので内科に駆け込んだ。「だめです。声帯がかなり腫れています。声を出さないでください」と医師。「なるべくそうしますが、でも仕事では致し方なく・・・」と恐る恐る言ってみる私。「そうですよね・・・では、プライベートはサイレントで」と医師。うーん、しゃべってはならん、とな。
私はプライベートで長電話をしないと落ち着かない、とか、毎晩カラオケで歌わないと発散できない、などという生活を送っているわけではない。だから基本的に仰せを守るのは難しいことではない。というか、ほとんど何も変える必要がない。なのに、「禁じられる」という意識が生まれるとなぜか飢えのようなものが募ってくる。それは、例えば「けしてみないでください」と言っているのに鶴の機織を覗いてしまう老夫婦や、黄泉の国から出るまで妻のイザナミの顔を「みてはいけません」といわれているのについ振り返ってしまうイザナギの「それ」に似ているかもしれない。禁じられるとなぜかそれを破りたくなる、というあの感じ。ダイエット中にいつも以上に食べ物のことが気になってしまうのとも似ているかもしれない。しかし、それは禁じられた「こと」を「したい」から禁を破るというよりも、「禁じられた」という認識によってその「こと」に意識が固定されていることが生み出す、不安感や焦燥感(飢え、のような感じ)に対するもののような気がする。本質的には積極的に禁を破りたいわけでもないし、言われていることをしたくないのでもない。ただ「禁じられた」ことで、その「こと」に張り付いてしまった意識、固定された意識の閉塞感に反応しているだけのことなのだが、残念ながら「禁を破る」では本来の目的は達せられない。多分。必要なブレイクスルーは、自分が「禁じられている」という意識に過剰にこだわらないことなのだ。すべきことだけすればいい。本当にしなくてはいけないことは実はシンプルだ。それを難しくするのは過剰な心配やプレッシャーといった「意識」なんだよな、それでまずまず自分で「禁じられた」感を高めてしまうんだよな・・・というようなことを医師と話しながら考えている私もなんだ、と思いつつ、診察は和やかに終わった。
「もしも風邪を引いている人が自分の前で席やくしゃみをしたら、口を閉じて15秒間息を止めてください。これでずいぶん感染は防げますからね。」と医師は言った。「はい。ありがとうございます」と返事をし、がんばろう、と私は思った。できるかな、そんなの無理じゃないか、とかじゃなくて、やれることをやろう、と。できるだけまっすぐ。
んで、まじめに仕事以外では食事の誘いも断ってサイレントを通し、寝るときもマスクを装着、部屋には必ず加湿器(「風呂場並みの湿度が理想的」と医師。そこまでにはできなかったけれど)、ユーカリの蜂蜜で作ったレモネードで喉をいたわる、等々、自分にできることをやってみて、なんとか福岡と久留米での仕事も乗り切った。やれることをやってみることは、それなりに実りあることです。

ところで本年は丑年。「牛」ではなく「丑」と書く。絵馬にも「牛」が書かれているんだが、「丑」の意味するところはそれのみならず、「紐(ひも)」の意味でもあり、紐の役割であるところの「結ぶ・解く」も意味するという。最近暦のことをつらつら調べていて、初めて知ったことなのだが、なかなか意味深いな、と思ったりする。
私は日ごろ、ひとのからだに触れていて思うことは、モノとその意味との、一筋縄ではいかない関係である。人は必ずしも、見えているものを見ているとは限らないし、モノをそれそのものとしてみていない。ほとんどの場合、見ているものには何らかの解釈や概念が介在しているし、見える・見えないということも、視力や認知能力そのものとは別に、編集が入っていることが多い。身体も例外ではない。物理構造としては何ら故障や異常がなくても、それの理解のされ方によっては、その構造が持つ働きは発揮されない。それどころか、けっこうシリアスに痛みが生じたり、動かなくなることも珍しくはなく、本人を苦しめる。
私はずーっと、ひとがその「からだ」というものにかけている一種の「呪」、思い込みとか、勘違いとか、奇妙なイメージや脅迫観念、価値観、固定概念、そしてそれの反映結果であるところの筋肉の緊張などの糸を結んだり解いたりしているような気がしている。
多くの場合、人はその痛みを「取り除く」ことに執着し、自分が痛みに、あるいは痛みを生じるからだに「縛られている」という認識を強く持ちがちである。そしてそれを「切る」ないし「解く」ことこそが解決だと思う。しかし、ここでもう一つ大切なのは「縛られている」ということは「守られていること」「他と区別されていること」でもあるということである。結果的に誤解であったり、エラーであることでも、むやみ誤っているわけではなく、ただその役目を終えても変化できない状態にあったり、縛りが強すぎるなどの加減が問題であるだけだったりもする。大切なのは、解決策を実行する前に、よく自分自身のしていることを見ることだ。し焦ってはいけない。行為すること焦れば、絡まった糸をほどこうと、よく見もせずに手を動かして、よけい糸をごちゃごちゃにしてしまうようなことになってしまう。本当に自分のしたいことに向きあいたければ、「解く」ことにも「結ぶ」ことにも心を縛られてはいけない。そうでなければ、ただ場所や事柄を変えて同じような不都合が発生するだけだ。
だから私は単に手っ取り早くクライアントの肉体の不都合を取り除くことに努力しない。見かけ倒しの「姿勢の美しさ」とか「健康」とかを、得たような気にさせるハウツーにクライアントを縛りつけて、お役に立ったようなふりをすることも私の仕事ではない。本当になにかが「できる」ようになるには、単なる目先のトラブル・シューティングでは不十分だ。それが「できる」ことが本人にとって快や歓びであるという感覚・自覚抜きには、本当には何も身につかないと思う。それには、「快」の影であるところのもの、本人の「恐れ」に踏み込まざるをえないこともある。そのことを、私は常に「こわい」と思って仕事をしている。正直言って、本人も気が付いていない他人のそんな部分にずかずか踏み込みたくない。でも、必要と思うからするだけなのである。
とはいえ、好き嫌いではなく、必要だと私が腹をくくっていても、すべてが実りある結果に結び付くわけではない。そういえば、喉の診察をしてもらった医師と、がん告知の難しさが話題になったことがある。本質的には、がんに限らず、「本当のことを相手に届くように伝えることの難しさ」の話。やさしく(「わかりやすく」でもあるが「ジェントル」という意味が大きい)はっきり相手に真実を伝えること。しかし「真実」の受け止め方は人によってまちまちだ。それが間違ったことではなく、正しく、確かなことであったとしても、受け入れられるとは限らない。そこで、認識のギャップから相手が受けるかもしれない心理的ショックを配慮してやさしく笑顔で話したりするのだが、相手はその笑顔にばかり目を向けて話の内容を真剣に受けとめない場合もある。そこで話している内容に気持ちを戻してもらうために語気を厳しくすると「怒られた」「人が変わった」などと言われることもある。そうして何かから目を背けていった人たちを私も何人も見てきたが、その人たちが私の目の前を去っても、その人たちについて考えることが消えるわけではない。どうしたらいいのか、どうしてなのかと、何年も考え続けることもある。常に眉間にしわを寄せて考えているわけではない。しかし消えたり忘れたりもしない。
そうしたことを考え続けていることが、自分を過去の事例や仕事に縛り付けているといえるのか、よりよい関係の結び方を求めて紐を手繰っている状態なのか、自分でも分からない。おそらくどちらでもあるのだ。私に必要なことは、そのどちらかだけに態度を決めることではない。今必要な手綱さばきを誤らないことである。自分の中の恐れにではなく、希望に耳を傾けて、選ぶことである。
私は何をしたいのか。それは私自身の問題でもあるのだから。

余談だが、大寒の数日前の日に「老人だか子供だかわからない顔をした童子(唐子人形みたいな)が花のついていない梅(?)の枝でもって、牛にかけられている縄を解く」という夢を見た。ワンシーンだけの夢だったのだが、妙に印象的だったので記憶していたのだが、暦の本によると、これとよく似た行事が実際にあるらしい。
「大寒(12月節)の日に宮中の12の門に12組の土牛童子を立てる。これは童子が牛を引く形の人形であるが、東の陽明門・待賢門には青い土牛童子、南の美福門・朱雀門には赤い土牛童子、西の談天門・藻壁門には白い土牛童子、北の安嘉門・偉鑒門には黒い土牛童子、そして残りの、東の郁芳門・南の皇嘉門・西の殷富門・北の達智門には黄色い土牛童子を立てる。これを立春(1月節)の日の前夜半時に撤去する。 」(吉野裕子著『十二支 易・五行と日本の民俗』より)
一説によると、この土牛童子は桃の枝を持っているらしい。桃には邪気を払う力があるとされ、仏具なども桃の木でつくられているものがある。
私がこの夢を見たのは、大寒より数日前のことだったし、桃ではなくて梅(だと思った)のだけど、何となくうれしくなった。春の前触れのような気がして。

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