えこひいき日記
2009年5月14日のえこひいき日記
2009.05.14
ココロが見えない何かに突き当たってしまって、どうしたらいいのかわからなくなって、苦しくてたまらない時間があった。
「どうしたいの?」と、泣いてばかりいる自分のココロに聴いてみる。
「なにがほしいの?」
そうしたら自分のココロが「・・自由」と呟いた。
聞いてびっくり。「自由」とな。でも、私は不自由なわけではない。どこかに閉じ込められているわけではないし、何かが不足しているわけでもない。そういう意味では、「自由」はすでに私の手の中にある。でも、それが「ほしい」と呟いてしまうくらい、手中のものを見失っている。私を縛っているのは誰かや何かではない。私を制約しているのは、私自身だ。結論や結果が「みえないこと」や、それへ「あがき」が私を不自由にしている。
「自由」って、なんだろ、と思う。「制約から解かれること」でもある。でも、制約から解かれさえすれば自由か、というと、そうではない。それが「自由」を使いこなせるかもしれない条件の一つがそろったに過ぎない。そう、「自由」を「使いこなせること」。それの方が私がほしい「自由」の意味に近い。では、私が「自由」を「使いこなしたい」のはなぜ?「自由」を使ってどこに行きたいのだろ?何を手に入れたいのだろ?・・・
そうやっているうちに、「どこ」とか「なに」という究極的な答えはまだ出なくても、「あがき」からは自由になれる。困ったときほど、流れに身をゆだね、今ある場所から逃げ出さずに受け入れてみよう。まだみえないものではなく、みえているものを見てみよう。投げやりにではなく。思考は切らずに。そうしていると、救いの「蜘蛛の糸」が出てくることに気づく。ほかならぬ、自分から。
・・・私は本気で迷った時に、こんなふうに自分と自分で会話する。感情の暗雲に飲み込まれそうになっても、間違ったヒロイズムへの欲求が、自分を責めたり、誰かを責めたりする方向に誘惑してきても(そっちの方がドラマチックで「おもしろく」はあるんだよね。昼メロ的で。でも本気で解決したいのなら、そんなドラマで遊んでいる暇はない)、ココロを励ましてその向こうの澄んだところに一所懸命眼を凝らす。
そうして澄んだところがみえだすと、ココロが泣きやんで、代わりにからだから本当に涙が出始めたりする。それまでは泣けもしなかったんだ、と気がついたりする。
「自由」なんて「状況」じゃなくて「意志」の問題。