えこひいき日記

2009年6月29日のえこひいき日記

2009.06.29

先日、広辞苑(新村出・編、岩波書店、第六版)を見ていて気がついた。(ほんとは「しん(真)」を引いていたのだが)

しん(神)
①人間を超越し、天地を支配する宗教的存在。かみ。
②肉体に宿る心の働き。こころ。たましい。
③神道の略
④神戸の略

人の心は、「神」なのか。人は肉体を備えた「神」なのか。「こころ」も「しん」と読めるから「神」に通じるのか?(日本語って、結構そういう駄洒落的センスに優れているもんね)精神とか、神経に「神」の字がつかわれているのも、この②に準ずるところがあるのだろう。

ちなみに「かみ」を引くとこのようにある。

かみ(神)
①人間を超越した威力を持つ、隠れた存在。人知を以ってはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの。
②日本の神話に登場する人格神。
③最高の支配者。天皇。
④神社などに奉祀される霊。
⑤人間に危害を及ぼし、恐れられているもの。㋐雷。なるかみ。㋑虎・狼・蛇など。
⑥キリスト教で、宇宙を創造して歴史を司る、全知全能の絶対者。上帝。天帝。

「かみ」と呼ぼうが「しん」と呼ぼうが、あるいは「しん」が「神」であろうが「心」であろうが、どちらでもよい。でも、そのような言葉や音で呼ばれるものが、人間と密接に存在しているのはなんだか分かるような気がする。
「それ」が人間の中に居るのか外に居るのかも、わからない。多分、どちら側にも居るのだろう。人間の肉体の中にある「しん」と、人間の皮膚の外の世界に在る「かみ」とが、何か共通するものなのか、はたまた全く異なるものなのか、私にはわからない。でも、人間の身体の外であろうと中であろうとそこはどちらも「世界」なんだから、どちらにも「それ」はあるように思う。それどころか、人間の皮膚一枚を介して、内と外の「それ」が呼応し交信しているような気がするときさえある。
「それ」が何なのか、私にはわからない。でも、「それ」が「ある」と感じられることが、なんだかいいな、と思ったりする。人間はいつ、どうやって「それ」を見つけたんだろう?

ときに「かみ」は危険な存在だ。この辞書にもあるように「かみ」は「人間を超越したもの」とある。何を超越しているのか。おそらく、人間が自らの「限界」と思っている壁を。あるいは「常識」と呼ばれる結界を。
いわゆる「神懸り」という状況下では、懸かった人間は通常の生活が出来ないような“異様な”状態になると言われる。こうした状態は“普通の”人間にとっては少々困ったことである。しかしそのように、「かみ」は一方的に人間をスカウト(?)したり、自分に出来ないことを人間に頼むべく境界を越えさせるような、強引な存在であるばかりではないように思う。むしろ、人間のほうが、このような「かみ」の強引さを頼んでしまっている時のほうが多いような気がする。穏やかで日常的な例としては、いわゆる「神頼み」というのがそうであろうか。自分だけではここまでなんじゃないか、とか、自信はないけれど叶って欲しい!と思ったときに、人は神に頼む。その本気度は実にさまざまだが、「神頼み」という行為自体は「自然」と呼べるくらいポピュラーだ。
でも、そのようなかわいいレベルではなく、人間が「かみ」を、自分では壊せない「壁」を強行突破する理由に使ってしまうこともあるような気がする。古くは十字軍などもそうであろうし、その類の争いは今も続いている。日本でいうなら、某新興宗教団体による無差別殺人など。そこまでいかなくても、何かの強引な(?)「挽回」を願うココロに「かみ」は利用されがちである。
進むべき方向を見失ったココロにとって、「ものめずらしいもの」と「貴重なもの」、「インパクトの強いもの」と本当の「力強さ」の区別はつきにくい。
私のところにも、たまーに「かみさま」に振り回される(本当は振り回されて、他力によって「今の自分」ではなくなることを望んでいる)人が来ることがある。あるいは周囲に振り回されている人が居て、「かみ」に嫌気がさしている人なども。「かみ」に感応する人たちは、確かに彼らは“普通の人”より感受性が細やかで、問題意識の高い“善人”であることが多い。だが、霊威や神威を感じ取る感性を持つことや、その経験を持つことは珍しく、貴重かもしれないが、同時にそれはただそれだけのものである。人間側の準備も出来ていないのに、「善いこと」をしあせっても、それはいいことではない。
よしんば「かみ」が、ある常識や結界の破壊に絡むとしても、それは自分や他者を顧みないでよいほどの「正義」にはならない。例えば、ある種の仏教の中には「調伏」や「降伏」という相手を伏せる修法があるが、これは本来相手の命を奪うことを目的とするものなんかではなく、相手にそのような「よくないこと」をすることを是とさせている「妄想(誤った考え)」が滅することを願うものだ。そうして相手が真に生きることを願うのが本筋なのである。しかし「罪を憎んで人を憎まず」などということをさらりとできるほど、デキる修行者は珍しい。デキないやつが己を知らずにデキる人がすべきことをしてしまう代償は大きい。残念ながらデキないやつほどそのことに気がついていない。一方で、本当にそんなことがデキる人は、自分にその資格があるのか、慎重に問いただす。デキる人は「(他の人とは違う)自分のチカラ」に酔ったりはせず、自分の内と、外に、ちゃんと対話をするものなのだ。そういう場合に発揮される「かみ」を感じさせるほどの常識はずれな力は、常識はずれで力強くはあるけれど、なぜか不自然ではない。

人間が、内に「神」を宿した存在かもしれない、と私が本気で思うのは、そういう「常識はずれかもしれないが、なぜか自然」と思える人の動きや働きを目にしたときだ。これまでにも何度か書いたが、レッスンをしていて、その人の身体にぴったり合ったかたちで何事かが行われた場合、その動きはとにかくクリアで美しく、その動きを通して伝えたい意味をとてもスムーズに通してくれたりすることがある。人によっては、今まで全くできなかったことが、自分に合った動かし方を見出す(というより、合わないのに「このやり方」と思っていた執着を捨てる)とうそのように動き出すことも珍しいことではない。それは、いわゆる、技術的に上手というのとは、少し違う。あるいは、天才、とか、才能、という言葉だけでもうまく片付かない気がする。人によっては、奇跡、という言葉を使うこともあるが、それはその人の驚きを表した言葉であって、現象そのものに充てられるべき言葉ではないような気がする。そのくらい、実は、自然なこと・・・。「常識はずれ」などというけれども、そこで言う常識はあくまでも「一般的」「多数決で多い方」という意味の「常識」であって、実は普段の「常識」のほうがよっぽど「常識はずれ」で、「常識はずれ」「奇跡」と思っているそちらの方が摂理としてはずっと常識的なんじゃないかと思うことすらある。

仏像が大注目され、スピリチュアルブームなどと言われ、神社や仏閣をフィーチャーした本もよく売れていると聞く。それはたぶん、人間が繰り返してきた、新しくて古いブームなのだろう。そのくらい、人間は普遍的に「かみ」が好きなんだと思う。自分の内にも外にも、事あるごとにたくさんの「かみ」を見出してきたように思える。ただ、現代において、人間が人間を超越していると感じる何かの存在や、その意味、範囲は多様化していると言えるかも知れない。
誰かにとっては「お金」は人間より高次な「かみ」かもしれない。「地位」とか「肩書き」とか「資格」や「仕事」が誰かにとっては「かみ」かもしれない。少し抽象的に「プライド」とか「他者からの信頼」が「かみ」かもしれない。あるいは「テキスト」や「メソッド」も、人間が自ら認識する「世界」の中に見出した「かみ」と呼べるかもしれない。自分の得意なことや、「こうでなければならない」という観念に振り回されるのも、ある意味自分が作り出した「かみ(自分自身よりすごいと思っているもの)」に振り回されているといえる状況なのかもしれない。
そういえば、『アメリカン・ゴッズ』(ニール・ゲイマン著、角川書店)には、古い神様と、新しく「かみ」とされたものたちのことが描かれていたな。

ふと、マイケル・ジャクソンのことを思った。彼の持っていたとても美しいもの・・・素晴らしい歌やダンスの才能と、それに対する情熱や、やさしさ・・・は、本物だったと思う。そうした内なる「かみ」と、現代において人を支配するほどの力を持った新しい「かみ」は、対立しあい、間に立った人間を喰い合う関係にしかなり得なかったのかな、などと思う。内に強く「かみ」の力を宿した人間が、内なる「かみ」にも、外なる「かみ」にも喰い殺されずに、幸せに生きていくことは、そんなにまでも難しいことなのだろうか。

才能ある人よ、善き道を歩もうとする志のある人よ、どうか焦らないで。自分の内にある何かと、外にある何かとの、対話を怠らないで。どちらかの価値観だけで突っ走らないで。きっと、他の誰かと同じではなく、他の誰かと違っているだけでもない、あなただからこそできるやり方が見つかるから。

カテゴリー

月別アーカイブ