えこひいき日記

2009年7月13日のえこひいき日記

2009.07.13

いつの間にか、蝉の声。空には入道雲。夏であります。京都は明日から祇園祭の宵宵宵山ということで、わくわくする。7月に入るともう街の空気がひそかにはっきりと(?)上がってくるので、面白い。

話は変わりますが、ひとから勧められて、スイカにライムをかけて食べてみた。「この組み合わせ、どないやねん」と思いながらも、根が実験主義者の私、やってみました。そしたら、おいしいのですよ!そのままのスイカの味も好きだけれども、ライムをかけると青臭さが影を潜め、全く違う洋風の(?)味わいになります。よろしければお試しあれ。ちなみにライムの変わりにレモンを使用するのはあまりお勧めしません。手に入りにくいかもしれないけれど、ライムでお試しあれ。

再び話は変わります。
先日、アメリカで暮らしている友人が帰国したので食事をした。彼らには2歳に子供がいるのだが、かしこいお子で、大変面白い。英語と日本語の両方をしゃべるのだが、誰にどっちの言葉で接するべきかちゃんと判断しているし(基本は英語のほうが達者らしいのだが)、大人になってから外国語を覚えた人間とは違い、2つの言葉の間に「切り替え」がないみたいなのだ。
例えばつたない英語を操る私などの場合、日本語をしゃべっていて急に英語をしゃべろうとすると一瞬頭の中に「停電」のような時間が訪れるような感じがする。まるで電圧を切り替えるみたいに、自分が思っていることを言語化するのに何かのスイッチを切り替えないと言葉にならない感覚がある。それは、自分の中の「思い」や「思考」と「日本語」の結びつきが強いためで、この「回線」の強さに比べれば思考を英語に翻訳する回線は脆弱極まりない。加えて、私は日本語を英語に訳す、という言語間トランスレーションをしゃべる場合にほとんどしない(かえって混乱するんだもん。もどかしいし)ので、自分の感覚や考えが英語と結びつく「回線」や「ソフト」みたいなものが立ち上がるまでに結構時間がかかる。日本語だって「こういうことを、どう表現したらいいんだろう」と迷うことはあるが、英語だといっそう迷う。
でも、2歳の彼の場合、おそらくどちらの「回線」にも著しい違いがないのかもしれない。とてもスムーズに英語から日本語へ、日本語から英語へ、切り替えていく。ひょっとしたら、大人のように言語で意思表示をする際に装飾的な言語を付け加えないこともあってかもしれないが、ストレートで、あ、言葉がちゃんと本人の意志の形をしている、と思って妙に清々しく思ったりする。

2歳児本人もそうだが、感心したのは友人夫妻の子育ての仕方。いわゆる、赤ちゃん言葉を使わず、いろいろなことをちゃんと言語化して伝えていること。思い切り一緒に遊ぶ時と、してはいけない場所でしてはいけないことをするのはいけない、と教えることを、両立していること。つまり、ちゃんと「大人」として子供を育てていることだった。
例えば、皆でレストランに行ったとき、当然のように2歳児は食事の途中で飽きてきて「ごちそうさま。椅子から降りていいか」という意味のことを両親に言った場面があった。「ここはレストランで、みんな食事中だから、だめ」と親がいう。子供はべそをかいたような顔になる。勝手に椅子を降りようとしたりもする。でも親ははっきりと「だめ」という。「食事中よ」と。ぐずる度に何度も。根気よく。その声のトーンが上がることも下がることもない。安定しているのだ。でも「おもちゃは出していいよ」と、小さなおもちゃを数点テーブルに出すことは許したりする。そうやって守るべきことと、許容される範囲を教えているように、私には見えた。そうやって、いつか本人が自分で判断できるようになるまで。
食事のスピードも量も違う子供と大人が同じ食卓についた場合、子供のほうが先に飽きちゃう、というのはよくある光景だ。そしてこのような場合(特に子供がべそをかきはじめたりすると)「あ、いいわ、もう椅子から降りなさい」と、言ってしまうことも珍しくないような気がする。「子供だから仕方がない」と「子供だけが」違う行動を許してしまうことのほうが多いような気がする。そういう子供の意志(?)を尊重することが、子供の自主性を尊重していることだという親もいる。

でも、それは果たして本当に子供の「意志」か。
子供にとってそれは、しばらくの時間自分が置かれていた状況への「反動」に過ぎないとは考えないのか。
「反動」に身を任せて状況を変える、というやり方一種類だけを許容する教え方でよいのか?
本当は、もっと自分と他者を大切にするやり方があるのではないだろうか・・・そのオプションを示すのが「大人」の役目のような気がする。
たとえ、暫時嫌われても。

いわゆる礼儀やルールの意味を、本当には理解できないまま、身振りとして出来るようにだけはなってしまった大人が子供を育てるのはハードだと思う。どうして人に挨拶しなくちゃいけないのか、公共の場所で騒いではいけないのはなぜか、そういうことを「怒られたら嫌だから」「変な人だと思われたくない」という、他者(「大人」?)からの評価を気にする目線でしか捕らえないのではなく、主体的に守る理由を考えて、自分なりの答えを持つことは大事だ、といまさらながら思う。考えたことのない人間は「子供」をしかれない。自分の中に相手にそれを伝える理由が本当にはないからだ。
それはあらゆる「型」についても同じことが言えると思う。どうしてこれの次にこの動きが入るのか、どうしてこの表現をこのステップで行うのか、どうしてこのやり方でエクササイズが進められるのか、どうしてこの音符の次にこの音符が並んでいるのか・・・考えなくては本当に自分のものにならない。自分のものになっていないものが、他者に伝えられるわけがない。

子供がかわいい、という気持ちが、時に子供に大切なことを伝えることを阻むことがある。それは「子供」の部分が自分にとって大切な誰かに置き換わっても、同じような気がする。大切なモノを本当に大切にしていくことは、簡単じゃない。だから考えないと、と思う。そのために思考を遣いたいと思う。目先のコトや、悩みや困りごとをなだめるためにではなく、大切なことを本当に大切にしていくために。

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