えこひいき日記

2009年8月9日のえこひいき日記

2009.08.09

昨今ニュースやらワイドショーやらで芸能界でお仕事をしている人たちの薬物使用・逮捕が取りざたされている。芸能人だからどうだ、という問題ではない事柄なのだが、でも容疑者が芸能人だと良くも悪くも激しく取りざたされ、否が応でもそれに関する情報が目や耳に入り、人は何かを考えてしまう。
あるクライアントさんがこの話題に関してこんなコメントをした。
「どうして覚せい剤になんか手を出すんでしょうね。だいたい、ケミカルに手を出す気持ちがわからない」
いやいや、にーさん、そういう問題じゃにゃーよ、と思わず突っ込んでしまった。気持ちは分かるけれど、前半と後半で話題が変わっとるよん。

「どうして覚せい剤に手を出すんだろう」と「だいたい、ケミカルに手を出す気持ちが分からない」の間にはある種の連想ゲームがなされているような気がする。
無粋に解説すると、「どうして覚せい剤に・・・」のくだりでは、文字通り、「違法薬物を」使用することに対する拒否感や否定的な気持ちを言葉で表現されたように思う。でも後半ではまるで覚せい剤が「ケミカルだから」いけない、みたいな話になっている。多分、このコメントした人の中に「ケミカル VS ナチュラル」みたいな構造がもともとあったんだと思う。要するに、「ケミカル」に拒否感があったのだろう。「違法薬物」に感じた「拒否感」が、「そういえば、マリファナとかに対して、覚せい剤って、ケミカルだよな」という連想を中継しつつ、「ケミカル」に対する「拒否感」に結びつき、このコメントになったのであろう。でも、覚せい剤使用は「ケミカル」だから悪いのではなく、天然素材でも、あかんもんはあかん。さらにいうなら、薬物という「モノ」が悪いのではなく、使用者がそういうモノを使用したくなるような人間関係や生活状況にあることが問題なの(あかんの)だ。それに依存することが、そうしたもので憂さを晴らさなくてはならないような生活を維持することにつながっていることに、なるべく早く気がついて欲しいと思う。

人工的なものより、自然なものがいい、というイメージは、ある意味正しい。でも絶対的ではない。なぜならそれはあくまでもイメージとしての価値観であって、具体的な個々の状況そのものではないからだ。
そういえば、建築素材に使われたアスベストの問題が取りざたされたときに、アスベストが石綿という天然素材であることを知って大変ショックを受けていたクライアントさんもいた。「天然のものが身体に悪いなんて。人体に悪影響が出るものって、絶対に人工的なものだと思っていました」と。
気持ちは分からんでもないのだが、そうではないんですね。
そういえば、「オーガニックって、腐らないのかと思っていた」という仰天発言をした人もいた。多分、「よさ」の意味がごちゃごちゃになっていて、その「モノ」が持たない性質まで連想的にくっつけてしまっているのだろう。からだにいい、と、都合がいい、はイコールではないこともある。
ふぐの毒だってハブの毒だって、天然モノ。毒キノコの「毒」だってそうだし。そしてまた、人間にとっては有毒だったり難消化物であるものが、別の生き物にとっては全然大丈夫なものだったりすることもある。なんか、そういうものなのよ、出来事なんて。

ものごとって、シンプルだけど、単純じゃない。そこが面白い、と思うのだけれども、それが怖い、と思う人もいる。
あるクライアントさんは「先が見えないことが怖い」という。例えば、テレビで中継しているスポーツの試合などを見ていても「どちらが勝つのかわかっていないものを見るのが怖い」らしい。「どちらかが圧倒的なら、安心する」という。そのクライアントさんは、特に中継中のスポーツのファンでもないし、どちらかのチームを積極的に応援しているわけでもない。でも、例えば国際試合で日本とどこかの国のチームが戦っている場合、接戦であるほど「みていられない」という。その人がその接戦を見ながら接しているのは「負ける恐怖」らしい。もちろん負けると決まっているわけではない。だから競り合っているわけなんだが、でも本人の中では負ける恐怖に身を震わせながら、ほとんど負けることを信じてしまうのだという。
一進一退の、双方の実力が伯仲するような接戦を、スポーツ・ファンは「いい試合」と表現したりもする。それぞれが力を出し尽くす様を美しいと思ったり、そのように試合に向き合う選手たちを称えたりもする。でも、ある人にとっては、どちらかが絶対的に勝つとわかっていないようなことは、見るに耐えないほど「怖いもの」なのだ。いっそ「負け」というポジションに安定してしまったほうが楽、と思ってしまうほどに(でも、けして満足はしないんだけれどね)。

そこにある違いは何か。
何がその人にとっての「現実」なのか。
ううん、それより大事なのは、その人がどのように生きたいかだ。ただ言ったことや、やったことに振り回されるだけじゃなくて、そのような言葉を話したり行動をしたのはなぜなのか、本当は自分は何を考えていて、本当は自分はどう生き(行き・善き・活き・好き)たいのか、ということ。それにとって「現実」は変わる。現実の見え方も変わるし、見え方に基づいて行動も変わる。

本当のことをみるのって、簡単じゃないのかもしれない。でも本当はとてもシンプルなことという気がする。大切なことという気も。

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