えこひいき日記
2009年8月12日のえこひいき日記
2009.08.12
レッスンが終わり、クライアントさんが帰られるときに「普段、どうしておいたらよいか」ということを聞かれることがある。私は「自分が何をしているのか、観察して置いてください」と応じることが多い。あるいは「眺めてみてください」「自分の身体と遊んでみてください」などと。
でも「観察」がわからない、という人も割かしいらっしゃる。
「何を見たらいいんですか?」と聞かれたりもする。「自分のすることを」と答えると、相手は黙ってしまう。それはわかっているんだけれど・・・わからない、といった風情だ。たぶん、「観察」という目の向け方を自分自身に向けたことがあまりないのだと思う。自分以外の存在にもそうだろうけれど。
「観察が何をすることなのか分からない」という人たちは、よく言えば目標意識が高い人だ。ただ、目標を見つめることだけに夢中で、夢中の最中に実際には何を行っているかがころっと抜けてしまうことが多い。だから中途修正が効かない。修正の必要に気がつくのは、かなり事態がきわまってからなのだ。惜しい段階で修正した経験が乏しいから、「変化」や「改善」はいつもかなりの段階に達してから過激に行うもの(正反対の事を行うとかね)というイメージも強い。逆に&だからこそ、ワンステップで目的に行ける、あるいは行くべきだと、思い込んでいることが多く、不安感も強い。「中途」「プロセス」ということにあまりリアリティがないようだ。
もちろん、言葉はご存知なのだが、この「言葉では知っている」「頭では分かっている」というのがときに実際との間に隔たりを作る。
なぜ人は「実際」よりも「頭」や「言葉」を優位にとらえるんだろう。実際にできていなくてはリアルじゃないんだけれど。「頭」の世界のほうが「実際」の世界より分かりやすい気がするのかな。
もちろん「頭」や「言葉」が「実際」への橋渡しや水先案内をしてくれることもある。ただ、「橋」があるモノとあるモノをつなぐものであると同時に隔てる性質を有するように、常に同じ働きをしているわけではないことを覚えておかなくてはならない。今、「言葉」や「頭」は自分(が認識している世界)と世界(というと大きい言葉だけれど、起こっていること、自分がやっていること)とを結びついているのか、隔たっているのか、随時チェックしてみないと「今、自分が、どこに、どのように、居るのか」がわからなくなってしまう。