えこひいき日記

2009年9月6日のえこひいき日記

2009.09.06

最近いろいろとハードな日々で疲れやすく、毎日事務所から帰るときにひたすらだるかったり眠かったりしていたのだが、先日、とうとう帰宅するなりそのまま眠りこんでしまった。推定午後8時(多分、ちょっと前)。そのまま朝まで眠ってしまった。だいたい11時間。うーん、大人になってからこんなに眠れるなんて、われながらあきれる。でもおかげさまで大分体力は回復。

ところで日曜の朝に、テレビ大阪で『平家物語』を放送しているのをご存じだろうか。
私はたまたまこの放送が始まったころに偶然見て、たまげ、そのまま見続けている。ただ、朝から(午前7時放送)見るには濃い番組なので、録画して見ている。(だから放送中のテレビは『ボクらの時代』を見ていることが多い)
日曜の早朝で、古典、といえば、日本の四季の美とか、『皇室アルバム』みたいな、こころ豊かに格調高く、ゆったりとした気分で視聴できる番組をイメージするかもしれない。ところがこの『平家物語』をそのノリではない。どちらかというと、NHKが週末の夜に放送しそうな勢いの番組で、出演者もやたら豪華なのである。このような番組が何故朝っぱらからテレビ大阪で放送されているのか、不思議な気がする。

『平家物語』といえば、学生のころ古典の時間に有名な冒頭の文言「祇園精舎の鐘の声・・・」を学んだ記憶がone and onlyの記憶。平家の栄枯衰勢を描いた物語、というざっくりした認識しか持ち合わせていなかった。その後、某大学の日本の古典芸能を学ぶ講座で検校さん(盲目で、平家物語を語る琵琶法師。僧侶)の実演とともに「平家物語は文学ではなく、お経なのである」との解説を聞いたのだが、そういう知識を得た、という程度で、その意味を理解するまでには至らなかった。間接的な知り合いに琵琶法師をされている方がいるのだが、その方のおっしゃり様を聞いていると、スタンスがかなり平家LOVEな感じだし、漠然と「平家物語は平家の側からみた平家の栄枯衰勢を描いているのだろうか」と思っていた。
ところが「原典で読む」番組『平家物語』によると、なんと最初のほうでは平家の奢り高ぶり様が細やかに描かれているのだ。「平家にあらずんば人にあらず」と言い出した平清盛が、当然出てくるだろう対抗分子を制圧するために子供ゲシュタポみたいなものを組織して、街角で平家の悪口を言っている奴を見たら何をしてもいい、というような「教育」を施す話とか、どんなに陰惨に政敵を追いつめ、絶望の中で殺したかとかが描かれている。これは記憶にある限り、学校の古典では教えられなかった部分だ。
一方で、有名な「屋島」などの壇では、これまた奢り高ぶった判官(源義経)がどのようにして平家を追いつめたのか、平家の武将の妻たちの悲劇も含めて描かれている。このようなくだりは有名で、琵琶法師による演奏会(?)でも語られることが多い。
なので、これまでの私のイメージは「源氏に滅ぼされた平家への鎮魂歌」のイメージだった。きっとそれもあるのだろう。でも、もしもこれが一種の経典だとするならば、描きたいことは「誰かのためだけの鎮魂」ではない。平家によらず、源氏によらず、誰であっても、そんなつもりはなくてもいつの間にか奢ったり高ぶったりし、因果応報を生み出してしまう人間という存在への鎮魂であると考えたほうがハマる気がするのだ。平家の奢りも、源氏の奢りも「平家」や「源氏」に起こったことでありながら、彼ら固有のものではない。普遍的なことがたまたま平家や源氏に起こった物語、だからこれは「あなた」の物語でもあるんだよ、というスタンスかと思う。
そういえば、歌舞伎の演目でも有名な「俊寛」も平家物語の一部。微罪なのに九州沖の硫黄島に流され、恩赦の際にもなぜか一人だけ許されず、都に残した家族の死の知らせに身体の中で何かが枯れはてるような絶望を感じ、絶食の後に息絶える俊寛。「俊寛が味わったのは人間として究極の苦悩。その苦悩は他ならぬ一人の人間によってもたらされたもの」というナレーションは興味深かった。そして「こんなふうに人の恨みを買いながら栄える平家の行く末こそ恐ろしい」と平家物語は語る。
人間が、人間にもたらすもの・・・確かに普遍的なテーマだと思う。

私はまだ、変なクセをつけようとか、体をゆがめようとしてそうなった人に会ったことがない。どんなに(結果的に)ひどい身体の使い方をしていても、恐ろしい身体イメージや考え方を持っている人でも、そうとわかってそうしている人には会ったことがない。それどころか、「努力」や「勉強」だと思ってその「ひどいこと」をしていることも意外と珍しくない。「ひどいこと」をしていても「ひどいことをしているつもり」がなければ人は自らの行動をそれとは認識しない。つまりは、「ひどいこと」はそれが「ひどい」とわかっていないからこそできること、ってことなのだけれども。
そしてそれを教えた側の人間もそうだ。それを「ひどいこと」だと思っては教えていない。何らかの「いいこと」だと思ってそれを他者にもたらしている。ただ、その「よさ」は何の、誰のためのもので、どの部分をいっているものなのかによって判断は変わる。狭い「よさ」は、広くは、あんまり「よい」とはいえないものだったりする。
こういうのも、ある意味「奢りの一種なんだろうな。広く解釈すれば。
例えば「目をつぶってでも出来る」という言い方がある。そのくらい自分にとって確実、絶対的、という意味で、高度の習熟し、習得されたことや技術が身についていることを表す言葉でもある。目をつぶってでも出来る、ことは素晴らしいことである。しかし一方で、できるからといって、目をつぶる必要がどこにあるのか。行為の必要性よりも技の顕示欲に傾いたとき、人は目を閉じたこと以上に何かを見失う。信頼という名の無関心。似て非なることの混同。紙一重の罠。平家や源氏の「奢り」はやはり他人事でも昔話でもない、と思ってしまう。わかっているつもりのことが実はわかっていないことほど、生き方としておそろしいものはない。「それ」を普段は「奢り」とは思っていないかもしれないけれど、「奢り」とは「慣れ」であり「思い込み」であり「無関心」でもあるのだ。

自覚にない人に物事を伝えるのは難しい。「ひどいこと」を「ひどい」と認識していない人に「それ、ひどいよ」とわかってもらうのは難しい。「ひどい」と言っただけでは通じないからだ。なんせ「それ」を「ひどい」とは認識していないのだから。「それ」を「ひどい」と呼んだところで、「ひどくない」と言われてしまうことが多い。中には「なに」を「ひどい」と言われたか、という問題ではなく、自分自身を攻撃されたと思うような、「もの」と「こと」の区別のない反応が帰ってくることもある。
もちろんこれは「ひどい」に限って通じないことではない。美しいことも、素晴らしいことも、自信を持っていいことも、「それ」を認識しなければ通じない。
だから私はどんなにひどくても、「それ」を最初から「ひどい」と呼ばないことが多い。ひどいか、ひどくないかで相手と戦うのではなく、問題の「それ」がどういうものなのか、なるべく素直に見てもらえるように勤める。上手くいうとは限らない。でも見てもらうことが出来れば答えはおのずと出る。

人間は本来悪人か、善人か、と問われたなら、おそらく善人、と私は思う。少なくとも皆自称・善人なのである。でも、正しくあろうとして、人は間違う。間違いに気がついたときに、どうするか・・・それの積み重ねで人の道が分かれるのだという気がする。間違いを隠すのか、自分を変えるのか。でも自分ってなんなのかわかっていない(・・・というより、問いかけてもみない)人間は変わることも出来ない。なぜなら「変わる」ことは「自己の消滅」に感じられるからだ。だから小さな小さな「自己」の存続のために隠すことを選んでしまったりする。
人間。不思議な存在。私も「人間」なんだけれども(微妙に自信がないのはなぜ?)「これ」がなんなんだか、よくわからない。
毎日毎日クライアントさんと会っていて、私はますます人間がわからなくなる。つまりは、それが「わかってきている」ということなんだろうけれども。

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