えこひいき日記
2009年10月1日のえこひいき日記
2009.10.01
最近めっきりテレビを見ることが少なくなった。見たいと思う番組がそれほどないせいもある。見たいものがないなら何も見なければいいのだが、不思議なもので「何か見たい」という欲求はあるのだ。何か、おもしろいもの。たのしいもの。テレビである必要はなくて。どういうのが「おもしろい」「たのしい」と感じるものなのか、明確な形を思い描けないにもかかわらず、その欲求というのは時に渇望に近い。
んで、DVDを借りたり、本を読んだりするのである。遅ればせながら村上春樹氏の『1Q84』など。
DVDの中の悪役など見ながら「悪」について考える。「悪」の魅力について。
現実の「悪」って、たいていしょーもなくて、スタイルとして認識するには不完全で、目も当てられないのに、描かれる「悪」は時にどうしてこんなにかっこいいんだろう、と。
今日は中国の建国記念60周年だということで、ニュースで軍事パレードや武装して街の警備をする警官や軍人の姿を目にした。これは「現実」の出来事なのだが、「パレード」というステージで見る軍人の姿にはある種現実味がない。軍隊なのに、ちょっとにこやか、というか。彼らは有事になったら自国のために人を殺したりもするのだ、という禍々しいイメージは影を潜め、音楽に乗っておそろいの衣装でおそろいの動きをする彼らからは別のイメージが漂ってくる。もちろん「パレード」という、有事ではない場所だからだということもあるのだろうが、そこにあるのは統一感とか、皆で一つの方向に向かっているという迷いのなさとか、そこから来る安心感や、守られた未来、幸福のイメージ。
ただの画像、ただの風景として見流してしまえば疑問もわかないような光景だが、ある意識で見ると私は眩暈のようなものを覚えることがある。なんか、矛盾しているよね、と思う。いざとなったら誰かに発射されるかもしれないミサイルを搭載した戦車や、機関銃を抱えた兵士たちがにこやかにパレードしている。血や硝煙の匂いではなくて、幸福のイメージをしょって。
でも、一方でこうも思う。矛盾といえば矛盾なのだが、これは多分、軍隊に限らず、あらゆる力、権力と呼ばれるようなものが常に持ち続けている矛盾なんだろう、と。その力や組織が成立したのは、そもそもは殺人や攻撃が目的ではない。多分。目的は自分たちの幸福であり、安全である。しかしそれの実行手段として選ばれたのは、殺人や破壊の可能性を厭わないやり方なのだ。手段と目的。多分、ちょっとバランスが変わったら簡単に手段は目的に変わるものだ。本来の目的達成(あるいは目的の保持)よりも力を行使し続けることのほうにやりがいや手ごたえ、「自分が必要とされている感じ」を感じてしまうこと・・・そんな例は仕事を通して山ほど見てきている。
ニュースの画像は切り替わり、警備のために街にたたずむ治安部隊が映し出された。おそろいの黒の制服に防弾チョッキ、手には銃。大きなサングラスとヘルメット。彼ら一人ひとりが持つだろう人間的なの弱々しさは黒いコスチュームに覆われて消され、そのコスチュームをまとうことの意味だけが形になって街角にたたずんでいる。
同じように全員制服で、同じように武器を携帯していても、街角の軍人はパレードの軍人とは違う。仮に同じ軍人さんがパレードと街角の任務とについていたとしても、それは全く「違う人」であるかのように違うだろうと思う。
どうしてだろう。特に戦闘態勢を取っているわけでもないのに、街角の軍人はその格好で立っているだけで恐ろしい。でも「かっこいい」とも思う。「恐ろしい」のに「かっこいい」。とても矛盾している。恐ろしいものはやはり「恐ろしい」ので、それを「よいもの」とは思えないし、どちらかといえば自分の側から排除したいと思う。しかしそれを、ただそこにあるもの、としてみたときに、「かっこいい」と感じてしまうものがある。「戦闘」という現実的な目的のためにデザインされた、揺るぎのない、無駄のない、かたち。その「ぶれなさ」を「かっこいい」と感じてしまうのかもしれない。そんな風に感じてしまうチャンネルは、ひょっとしたら子供が戦隊ヒーローに憧れるのに似ているのかもしれない。戦闘機マニアとか軍艦の模型をコレクションする人が、必ずしも殺人や暴力の実行を好んでいるわけじゃない、というのと似ているのかもしれない。そこにみる魅力は「暴力」の魅力ではなく「きっぱりとした姿」の魅力なのだ。
『広辞苑 第6版』によると、「悪」はこのように載っている。
「悪」
①よくないこと。天災・病気のような自然的悪、人倫に反する行為などのような道徳的悪の総称。正義・道徳・法律に反すること。仏教では五悪・十悪などを立てる。⇔善
②みにくいこと。不快なこと。(「悪趣味」など)
③おとること(「悪筆」など)
④たけだけしく強いこと。
⑤歌舞伎の敵役。
スパイアクションもののスパイが殺人者のクセにかっこいいのも、かつて松田勇作が演じたような狂気を秘めた人物が美しいのも、「殺人者だから」ではなく、④のような意味においてなのだろう。でも、①や②や③の意味からも完全に自由ではない。彼らは常に異端者、アウトサイダーなのだ。「ふつうではない」「普通の価値観の外にある」という意味で①や②や③の評価をを免れ得ない。しかしインパクトは大。何らかの変化を求めている心には「善」よりも目に飛び込んでくるものがあるだろうし、そのインパクトは④の印象に通じる。不良に憧れたり「(それをやりたいというよりも)悪いといわれることだからやってみたい」という好奇心を持つのも、本質的には「自分を変えたい」「強くなりたい」という心なのだろう。そういう意味では「善」という概念もある種の檻なのだ。「悪」だってそうだけど。
多くの場合、私たちは「ふつうでない」ことに憧れながらも「ふつうでない」とみなされる事を恐れている。「ふつうでなくなる」ことは「どうしようもなく独自であること」を受け入れることでもあるからだ。それはある自由の獲得とともに、孤独を予感させる。
八坂神社の中にスサノオ命の荒御霊を祀った「悪王子神社」というのがある。日本の神様は面白くて、一人の(ちゃんと一柱というべきか)神様でありながら、その神様の「或る面」によってその御霊の呼び名を異にしている。この場合の「悪」というのも④の意味だ。スサノオ命の中の「悪」、つまり、何かを具体的なかたちで実行するときのエネルギーのあり方がそれなのだ。村上春樹氏の前作『海辺のカフカ』の中の表現を借りるなら、「巨大なる偏見を持って速やかに断行する」パワーといえるかもしれない。また、こうしたエネルギーのあり方は何もスサノオさんの専売特許ではない。「悪」という表現はとられていないが、伊勢神宮の中にもアマテラスさんの御霊の一つ「荒御霊」を祀った社が本殿とは別にあり、何か現実的なお願い事をするときにはそちらにいくように勧められたりする。そういえば、某アニメの制作現場では、主人公の周りに必ず2匹ほどの動物のキャラクターを置き、彼らに主人公の「もうひとつの心」を語らせるという構成を「王道」としている、というのをあるクライアントさんから教えてもらったことがある。この構成、神代の昔からの黄金パターンなのかもしれない。
先日、バレエ・ダンサーをしているクライアントさんと『シンデレラ』のお義姉さん役の話をしていた。今度の舞台でクライアントさんが演じる役である。強烈な悪役ではないかもしれないが、義姉も一種の「悪役」といえるかもしれない。
バレエでは、台詞はなく、全て踊りで役柄を表現する。その踊りの動きも、実際のしぐさを真似たものではなく、現実では行わない動作で表現する。つまり、跳んだり、回ったりというようなステップで、である。しかも、それらは運動レベルや技術からいっても高度でハードな動作なのだ。だからダンサーはついついステップの技術のほうにばかり気を取られてしまう。でも奇妙なもので、現実の世界ではそんな気持ちのときにそんな動きはしない、というものを目撃しているのに、役の気持ちが観客にびんびん伝わったりする。だからこそ、ダンサーの動きへの理解は重要だ。ただ技術的に完璧に踊り上げることだけがダンサーが果たすべき使命ではない。どうしてこの動きをするのか、わかっていなければパやポーズ(バレエのステップ)はただの「美しいかもしれないが現実味のない激しい運動」で終わってしまうのだ。
クライアントさんもそれをよくわかっている。でも、姉のいじめっぷりに今ひとつ感情が乗らないらしいのだ。善良な彼女には、異母妹を母ともども意地悪する義姉が、いったいどんな人物なのか今ひとつぴんと来ないらしいのだ。
「どうすることが義姉として正しい演じ方なのかではなく、シンデレラって、義姉って、あなたの眼から見てどんな人に見えるか、考えて見ましょう」と私は提案してみた。
こういう言い方をするとなんだが、「シンデレラ」と「眠れる森の美女」はよくフェミニストの槍玉に挙げられる御伽噺である。どちらの主人公も、自分ではたいしたことをしない。ただ素敵な王子様に見出され、「幸せに暮らしましたとさ」というハッピーエンドに向かう。つまり、この主人公のお姫様たちの「ハッピー」とは、自分の努力ではなくて、他者、しかも男によって降るがごとく与えられたものなのだ。「眠り・・」の姫などは、眠っているうちに見初められて、目が覚めたら当然のごとく結婚しちゃうのである。それ以外の幸福の形など存在しないといわんばかりに。
受動的で「かわいい」シンデレラに対し、義姉は、少なくとも自ら行動する女性である。自らお城の舞踏会に出かけ、王子様が欲しいことをアピールしている。いわば婚活。彼女にはまがいなりにも「自分の意志を持つことの痛み」がある。欲しいものがなかなか手に入らない悔しさ、何を自分は欲しているのかを突き詰めて見えてくる自分という存在のどうしようもなさ・・・どこまでの深さかはわからない、でも、彼女はそうしたものに片足くらいは踏み入れているのだ。そんな彼女から見れば、自分では何にもしないのに男受けのいいシンデレラは「ちょっとむかつく」感じがする女の子なのかもしれない。逆説的だが、それはシンデレラのように自分からは何もしないで与えられる幸せ、無条件な愛され方に対する憧憬も含んでいるような気がするのだ。
とはいえ、シンデレラだって楽な人生ではない。他人の目からは恵まれているように見えることであっても、「与えられたものを受け入れて生きる」というのは覚悟が必要な生き方だからだ。ただのタナボタ人生ではない。資質に恵まれたダンサーや芸術家が悩まずに歩み続けられるかというと、そういうものではなくて、他者からうらやまれる要素こそ本人の悩みであるコトだって少なくない。自分の資質を本当の意味で自分のものにするには、ある種の訓練が要る。そういう例も仕事でたくさん見てきている。
「ひょっとしたらシンデレラとその義姉は、一人の女性の別の面かもしれませんね」とクライアントさん。
そう、ちょうど「悪」の⑤の意味のように。お互いがあるからお互いが見える。反射しあう関係。人格というより相対的な立場や役柄。違っているようで、一つのもの。
そんな風に考えていくと、聞きなれた御伽噺、オチの分かっている物語でも、ちょっと臨場感を持って感じられそうだ。
世界中で何度も語られ、演じられ続けている普遍的な物語、あるいは優れたシナリオたち。でも、それにその都度命を吹き込むのは「そのときの人間」なのだ。物語の作者でも、かつての演者でもない。そんなことを改めて思う。不思議な感じ。
『広辞苑』の「悪」の項目の後にはこんな言葉も載っている。
「悪に強いは善にも強い」
大悪人はいったん悔い改めると普通の者以上に善をなす、という意味だそうである。狭い与えられた善に留まり暮らす者よりも、「悪」を行使したことのある人間のほうが「世界」に触れる方法を知っているから、かもしれない。
そうだといいな、そういうの、魅力的、と思う。「からだの使い方」なんぞというものを教えていても、ただおっかなびっくり「正しさ」を守るだけの使い方なんて何の魅力もない。だって、あなたがあなたであること、個性とは偏ることに他ならないからだ。でもその「偏り」はただの偏狭とは似て非なるものなのだ。だからこそ、真に個性的であるために「正しさ」を知る必要がある。あなたが今思っている「自分のからだ」は「からだ(全体)」の可能性のほんの一部の発揮のさせ方に過ぎないからだ。神様だって、必要に応じていろんな魂で「世界」に応じる。生きて、生き続けて姿や形を得る、現す、ということは「○○さえやっておけばいい」というような機械的なものではないのだ。
どんなに時代進んでも、人間は人間でしかないのかもしれない。昔の人よりも今の人のほうが進歩しているとは限らないし、かといって、現代人が劣化する一方とも言い切れない。新しいモノを発見したようでいて、それは普遍的なものの別の形態を見出したに過ぎないことかもしれない。ときどき思う。私は何も新しいものなど発見せず、現さずに死ぬのかもしれない。考えれば考えるほど私のしていることは「あたりまえすぎる」。それをある種の諦念を持って見つめる自分がいることを否めない。
でも。
誰かが私より先に私と同じようなことを考え、同じような生き方をしていたとしても、私がしていることが必ずしも私がしなくてはならないというような固有のものでないとしても、私は私としてこの人生を生きてみよう。
「そのときの人間」として。
そんなことを思ってみたりする。