えこひいき日記

2009年10月8日のえこひいき日記

2009.10.08

台風の上陸でどうなるかと思いきや、京都市内は意外にも穏やかなものであった。大雨ではあったものの。幸いクライアントさんたちの足元にもさほど影響はなかった様子。よかった。
各地で被害にあわれた方には心からお見舞い申し上げる。

新しいクライアントさんがいらしたときに、レッスンのペースについて質問されることは多い。どのようなペースで来て貰うのが望ましいのかは個々異なる。その人がレッスンに来る動機、身体状況、学んだことが整理されて定着するペースなどを推測して、個別に答えるのだが、どなたに対しても付け加える一言がある。「今申し上げたペースはあくまで目安です。あくまで時間的・経済的に負担を大きくしすぎないペースにしましょう」と。
このレッスンは、詰めて受ければ早く定着するものではないし、何時間も続けて受ければ効率がよいというものでもなし、ましてや払った犠牲に比例して得られるものでもない。むしろ「犠牲的」なものは最小限のほうがよい。例えば、「早く身に着けたいから」とスケジュール的に無理・金銭的に無理をしすぎると、「無理をする」ことで精一杯になってしまって、肝心のレッスンの内容にエネルギーを傾ける余裕がなくなる。肉体のことを扱っているので勘違いする方もいるが、身体とは見かけではない。一見「できている」ように見せることに意味はない。真に身についたことが身体に出るのが本来の姿。だから「無理をしすぎないこと」と言い添える。
とはいえ、一発で「無理がないペース」を当てることが大事なわけでもない。「これくらいかな」と思って試してみて、それが合わないようだったら「よりこちら」と思う方向に修正をかける・・・そういうのでいいと思う。「何が無理か」知る機会にもなるし。大事なのは本来何が大事なのかを見失わないこと。いつも、何度でも。修正すべきことがある、というのは失敗とは違う。

「自分のとって続けたいことを続けられる環境とは何か」・・・などということを唐突に書き始めたのも、辰巳芳子さんのレシピに従って「玄米のスープ」を作ったからである。滋味とはまさにこのこと。飲んだ途端に、皮膚と皮膚の内側が同時にざわざわするような感じを感じる。「本物」「すごいもの」に触れたときに私の反応パターンの一つ。そういうことって、たくさんはないけれど、在るのは確かなこと。そして「本物」の力はやっぱり凄い。端的に言って、そこそこのものに100回触れるよりも、本物に1回触れることのほうが、ばーんと扉が開くと思う。本当に、一気に(でもやさしく)目が醒める気がする。このスープを飲むと。
興味を持った方、ぜひやってみんしゃい。材料はどれも特別なものではないけれど、こんなふうにスープにすると全く違ったものになる。それはまるで魔法のようなのだけれど、特別なものではないものの中に潜む“特別な”力に触れること・・・魔法のようであたりまえなこと・・・は、私にとってわくわくするような「開けゴマ」だ。

「玄米のスープ」は、まず玄米を洗って1時間ほど給水させてから、それをざるなどにあげて、6時間くらい(一晩くらい)乾かすことから始まる。そしてその玄米を20~30分空炒りする。それが下準備。
文字で書くと「20~30分空煎りする」だけ、なんだが、そういうことを「やろう」という気分になれるかなれないかが、今の私の「生活」を映す鏡。
作業自体は難しくない。ただ、焦げないように木じゃくしでかき混ぜながら玄米を炒るだけのことである。やり始めれば何のことはない、木じゃくし越しに変化していく炒り米の感触、香ばしい香りと色の移り変わりに寄り添うのは楽しいものだ。
しかしこの「難しくない」「楽しい」ことが「できない」ことがある。「やったらいいんだろうな」「やりたいな」と思いつつ、今その価値観だけで敢えてそれをやってしまうとしたら「無理」にしかならないかも、という状態がある。20~30分、レンジの前で火や米と向き合うことが「めんどう(しんどい)」と思う自分が台頭しているときである。

現今の多くの人々が、家事から解放されることを願うのは、この積んだり崩したりと感じられる故に、人間の尊厳をつかさどる自我の部分と相克するからではないでしょうか。
家事は、ハウスキーピングではなく、ライフキーピングであることを、どれほど理解していても心中穏やかではないのです。なれば、理性的に合理化をはたし、自分をなだめ、養う方法に至らねばなりません。

──辰巳芳子 『いのちをいつくしむ新家庭料理』(マガジンハウス)より(「人参」のページより)

そういうときの私は、時間と戦っている。忙しい。でもそういう自分を自分自身がどこかでばかにしている。やる気と充実感がないわけじゃないのにどこかで自分のためのエンジンがかかりきらないとか、夜はとにかく明日のために食べて、明日のために眠るのを「責任感」みたいに思っているところとか。できていない仕事にもイライラしている。
そういう自分は自分で好みじゃない。

その一方で、最近、自宅に来客が多く食事を作ることが多くなった。「もてなす」「いい時間を過ごしたい(してもらいたい)」という意識をカタチにするのはなかなか悩ましい。例えば、いかにも「よそゆき」「特別」というような、贅沢なモノを饗するのも一つの「もてなし」だろうが、そのようなもてなしは正直、飽きる。それに、「自己防衛」と紙一重な気がする。本当にもてなす気持ちがカタチになっているのか、と疑念する。お口に合うかしら、だいじょうぶかしら、本当に喜んでもらえているのかな、というもどかしい疑念を物質的な「価値」で封じているかのような。そういうのって、疲れるし、経済的なことをも含めた労力と、結局は見合わない。
私は封じるべきじゃなくて向き合うべきなんだ・・・「これでいい」なんてものは結局ないのだから。あるとき、唐突にそんな風に思った。
もどかしく悩むことを受け入れたときに、ちょっとだけ「素材選び」って何のことなのか、見えるようになったような気がした。そして自分が「いいと思うもの」に対して少し素直になれるようになった気がする。相手にはもちろん喜んで欲しくはあるが、「こんなものをいいと思っているのか、とか思われたらどうしよう」「自分の好きなモノを出しているだけでいいのか」よりも「そう思われたなら、それでいい」と思うようになった。単純にそれが相手の好みに合わないのなら、それはそれでいいし、自分と価値観が違ったり、見る目がない人であるゆえだったら、それはそれでいい。その次にわかることや出来ることはちゃんと在る。
あったりまえだが、真剣に向き合えば、怖いことってあんまりないこといがわかる。短絡的に事無きを願う気持ちが、踏むべきプロセスを踏むことを恐れさせる。そんなことにエネルギーを費やすから、出来ることもできにくくなる。
ただ、目の前の現実をちゃんと見ること。「つもり」で見るんじゃなくて。すべきことはそれだけなのだ。
仕事だって、料理だって、人と向き合うことも、猫と向き合うことも。

そんなこんなで、「玄米のスープ」を作ってみました、と申し上げるのはいささか唐突かもしれない。でも、そうなんだもーん。大げさそうだけど、大げさではなく、「スープ作ろう」と思える環境が整ってスープが作れることが、私の望む生き方なんである。

辰巳芳子さんのお料理の本は、いわゆるお料理の本ぽくはない。いかに手軽に手早く、わかりやすく、料理を作るか、というレシピではなく、「料理を作るという感性をそなえた人をどう作るか」というレシピがメイン。
「頭はやわらかく、自由に、法則にかなって使う」と彼女は言うのだ。

「頭はやわらかく使う」

私の大好きな態度です。やわらかく使う根源は、つねに、ものともの事の本質を見極める。見極めようとする態度から始まります。その足場から、至って自然、当然のことのように新たな発見、みずみずしい気付きが溢出いたします。

そこには、わざとらしさがみじんもない、必然性に満ちた提案がゆたかに在ります。

──辰巳芳子『いのちをいつくしむ新家庭料理』(マガジンハウス)より

これは三枚肉を使った料理について書かれたページの冒頭の文章だ。こんな料理の本、あるだろうか。こんなことがかける料理家も。
(お肉のレシピもあるのを意外と思われる方もいるかもしれない。これがいわゆる「健康法」や「○○主義」としての料理本だと思われたなら、裏切られると思う。「健康」というのも「本質」の一部だが、全部じゃない)

また、「思いつきとひらめきは違う」とも彼女は書く。(「味噌」のページ)

ひらめきは思いつきではありません。知恵と経験による試行錯誤の集積から溢れるものです。また、かならず幸せの源となります。

思いつきははた迷惑あるのみです。

──出展・同上

そういえば、ナイト・シャマラン監督の『レディ・イン・ザ・ウォーター』の中に出てくる「世界を変える本」のタイトルも「料理本」だったな。

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