えこひいき日記
2009年11月15日のえこひいき日記
2009.11.15
もう11月も15日である。わぁぁぁ。
最近、自宅から事務所までの短い通勤時間の中で「猫を見かける」ことが密かな愉しみとなっている。猫を見かけることが出来た日は、勝手にラッキーday!と思うことにしている。というか、ほんとに嬉しいから嘘じゃないんだけれど。猫だけではなく、散歩中の大きな犬など見かけても幸せなんだが、個人的には猫がたいへん「いい」。
猫スポットはだいたい決まっている。通勤経路にある、とある駐車場なのだ。そこの植え込みで日向ぼっこをしたり和んだりする猫を見つけるのだが、私の通勤の時間帯にそこで猫を見かけることが出来るのは冬が来るまでの短いお楽しみ。アスファルトの駐車場は、夏は暑すぎるし、冬はひえひえだ。でも、今くらいの季節であれば、晴れていればアスファルトも日差しで暖かい。(彼らは雨や冬の日はどうしているのだろう??)先日は兄弟と思われる猫2匹がころんころんと転がりながら和んでいて、ラッキー倍増!という気分であった。
お日様が照っていて暖かいな、ころんころん、みたいなのっていいな、と思ったりする。
すごく自然な幸せ。勝ち取るとか、守り通す、とかじゃなくて。ふつうに受け止めて、ちゃんと反応して。
10月末に、悩み悩んだ末にあるお仕事を一つ「なし」にしていただいた。やりたくない仕事じゃない。むしろ、気持ちは凄く「やりたい」。だけど、今は出来ない、と判断した。やる気はないわけじゃない。でも本当にそれを「する」には充分な状態じゃない。今アウトプットしようとしても、自分の中の「もの」が反応してくれない。やろうとしても、びっくりするくらい全く進まないのだ。
こういうことって、世俗的には非常に情けない気持ちになる出来事だ。自分がものすごく無能な気がしてくる。でも、変な話、「なし」にしてもらってものすごく解放された。お陰で、かえって「それ関係」の仕事が自分の中で進むようになった。そのことが、個人的には大変嬉しい。
11月に入って、また別のお仕事を、悩んだ挙句、「なし」にする覚悟で話し合いをして、「あり」という結果を出した。損得の計算や浮世の義理ではなく、今、「あり」で行きましょう、と思えた。そのことがとても嬉しい。
「あり」と「なし」。そこだけ見れば正反対の選択をしたようだが、私にとっては同じコト。同じキモチ。どちらも私にとってGOサイン。
そのことを理解してくださる方が私の仕事相手でいてくださることも、とても嬉しくありがたいことだ。
「なし」にしてもらう、「なし」にする覚悟をする、というのはいろんな意味で賭けだ。「なし」にすることで、それで私は何を「なし」にするのか。具体的には一つの仕事がなくなる、ということなのだが、それに留まらず、「なし」にしたくないものまでなくす可能性がある。例えば、そのことに関わってくれた人の「信頼」とか「期待」とか、この先の「関係」とか「仕事」など。何より、私はその「仕事」を「なし」にすることで、「それ」に関わることを一切やらなくなるのだろうか、要するに、自分の「やる気」が萎えてきているだけのことではないのか・・・というのが個人的な「最悪」予想だった。つまり「恐れ」。避けたい「最悪」。避けたいから、「なし」にするのはなし、しがみついてでも続ける・・・という選択肢もあるのかもしれない。
でも、「恐れ」ばかり見ずに現状を見ろよ、と自分で自分に言う。「なし」にするのをなしにしていて、何が進んでいるといえるのか。それで何が出来ているといえるのか。
何がしたくて悩んでいる?本当には何がほしいの?・・・そこに焦点が合うと、すべきことは見えてくる。あとは、それを実行するだけ。そのためのカラダだ。恐れや義務に従うだけの存在ではなく、真に望むことに即応するための、感受性を備えた実在。それが私にとっての身体だ。
先に進むための「なし」。ただ消したいわけでも辞めたいわけでもない。だから「なし」にすることを視野に入れたり、「なし」にすることを試してみなくてはならない。本当に「する」ために。
でも「平気」なわけじゃないんだよね。私にとっては何度選んでも「賭け」だ。ただ、それで後悔したことはない。それも事実。
猫のように、とまではいかないかもしれないけれど、私は私の生きる世界でできるだけ、ふつうに受け止めて、反応して生きていきたい。
もう少し人間的(?)に表現すると、ゲーテはこんなことを言っているらしい。
義務の重荷からわれわれを解放することができるのは良心的な実行だけである
がんばって仕事したりして生きていこうっと。