えこひいき日記
2009年12月20日のえこひいき日記
2009.12.10
最近マイブームの掃除。
最近自分の中で、少し変わったな、と気付いたことがある。それは掃除の仕方。
以前は「汚れたところをキレイにする」ことが「掃除」のメインだった。でも、今は「状況を保つ」「居心地のよい場を作る」手段の一つが「掃除」になったように思う。
結局は「掃除」なんだけど、これって行為のベクトルが違う。こういうことって、意外と大きい。
汚れたからきれいにする、は、別の言い方をするならば、汚れるまで何もしない、ということだ。あるいは部屋を見ずに汚れを見ているというか。そうではなくて、自分はどんな日常を過ごしたいのか、大げさに言えば、自分の発揮したい能力を発揮しやすい「場」を整える手段として「掃除」を認識するようになってきたと思う。
どうして掃除の意識が変わったのか。それは多分、自分が「どうしたいのか」が少しわかってきたからだ。これまで「どうしたくないのか」はわかっていた。でも少しずつ、「どうしたいのか」がわかってきた。ようやく。やっと少し。
レッスンに来てくださる方の中には「なぜかレッスンから帰ると掃除をしてしまった」という人が、以前から少なからずいる。掃除、というか、整理。例えば、ずっと片付けねばと思いつつも片付けあぐねていた棚や押入れの片付け方を、レッスンから帰ると突然思いつけたりするのだという。
「片付けなべならないと思いつつも、片付けられない」のは、単なる怠惰が原因ではない。どうなることが自分にとって本当に「片付いた」という状態なのか、わからないから手が出せないのだ。そこがめったに誰も使わない倉や押入れならいざ知らず、リビングや勉強部屋など、現在進行形で有機的に機能している空間であるならば、機能的ではない「片付け」は意味を成さない。「片付け」とは「モノに居場所を与える」ということなのだ。そのためには、何をどこにおくことが自分にとって機能的なのか、まず自分の生活というものに目を向けなくてはならない。
どんなに見た目にスタイリッシュでも、一見すっきりしているように見えても、使うたびに漂流しなくてはならないようなモノの使い方はどこかおかしいのである。だから、急な来客があってとっさに人目に付かないようにモノを隠すことは、本質的には片付けではないのだが、「とっさに」「せつな的に」行うその「隠蔽」行為しかそれとして経験していない人は、意外に多いようだ。
そうした居住空間と、その人の身体観は、意外とリンクしている。身体のありようもまた、「痛い」とか「できない」とか、不都合が起こらないと本人に認識されないことが多い。あるいは「人前に出る」などの機会で自身の身体を意識せざるを得ないときなどね。写真を取られる一瞬や、周囲の人の目が注がれていると意識したときだけ、「とっさに」姿勢を正す人は少なくない。動作とか、なにかができる、ということにも同様の認識がなされることは多い。まるで一夜漬けの試験勉強対策のように、その場を「やり過ごす」ためだけに身につけられたものはけっこう空しい。何より、何度乗り越えてもその結果が本人の自信にならない。同じことが起こるたびにどこかで「今度は失敗するんじゃないか」「ばれて他者からばかにされるのではないか」と怯えていたりする。そういう人間ははったりがきつくて、隙があれば誰かを見下して自分が安心しようとする。付き合っていて、疲れる。でも、悪気があって「やな人」になっているわけじゃない。自分に自信がないから、必死すぎてそのほかのことが目に入らないから、その見えなさが、自分や人を傷つける。
そう、本当に「ふさわしい方法」をとらないということは、疲れることなのだ。
身体は、本人にそれが認識される時間以外にも存在している。何をしていようと、少なくとも、生きている限り。しかし「身体」というものが意識されるのは特殊な瞬間だけという、意識の孤島に追いやられていることがなんと多いことか。ちょうど、来客があるときにだけあわてて掃除や片づけを行いように。そのときのリビングだけが自分の認識するリビングだなんて、なんか変だと思いません?
でも。
今まで見えなかったものが見え出すことって、凄い。それを受け入れて、選び取り始めた人間の放つパワーって、凄いと思う。そうしようとしない、気がつきもしない人間に対するイラつかなくもなくはないんだけどさー、そっちより・・・つまり、「したくないこと」よりも「したいこと」にぐっと焦点を合わせて、この先の道を進んで生きたいと思うのだ。
そんなことを思うようになった、今日この頃。
ところで来年は寅年。「寅」は「虎」ではない。キャラクターは「虎」と同じものなのだが、真の意味は「寅」に虫偏をつけた「いん」という読み方をするモノ。実はミミズ君なのである。なんでミミズ君が虎になっちゃったのかは、文字の形から連想された結果らしい。
「寅」の意味としては、動き始めること、生まれ出ること、顕われ出でる、ということ。「啓蟄」というのが、春の気配になって地面にもぐっていた虫たちが地面に出てくる時期を現すように、「寅」は、「寅」ならぬミミズ君がゆらゆらとくねりながら地面に顔を出して活動を始める有様。だから、干支の飾り物としては首がゆらゆらする「張子の虎」を飾るのがマストらしい。でも残念ながらなかなか気に入る「張子の虎」が手に入らないんだよねー。
ともあれ、よろよろと、まだ頼りなくはあっても、新しい年からは何かが始まりそうな感じ。テーマは「刷新」って感じ。
よろよろがんばろーっと。