えこひいき日記
2010年1月20日のえこひいき日記
2010.01.20
福岡・久留米での仕事も無事終了。いつものことながら、福岡と久留米のスタッフの皆さんにはいろいろお心遣いをいただいて、ありがたい。おかげで気持ちよく仕事をすることが出来た。
仕事が終わってから、高速バスを使って高千穂へ向かった。
折りしも九州には珍しく大雪が降っていた。高速道路が全面通行止めになったほどで、周囲の人たちには「大丈夫ですかね」「キャンセルしたら?」などとご心配をいただいた。
幸い私が出発する日は高千穂行きのバスは走り、無事に赴くことができた。高千穂は初めて行く場所でもあり、何度地図を見ても縮尺がつかみきれなかったので、タクシーの運転手さんにお願いして宿までの道すがら、気になる場所に立ち寄りながら行ってもらうことにした。結果的に、この行為は正解だったようだ。基本的に宿までの道沿いであったとはいえ、私の行きたい場所は徒歩で回るにはちょっとハードな距離があったことがわかったのと、運転手さんが「語り部」でもあったために詳しい土地のお話などを聞くことが出来たからだ。
まあ、私の立ち寄りたい場所って、結局神社さんばかりだったのだが、それぞれの神社さんが個性的で楽しい。京都に生まれ育ったこともあり、神社仏閣には幼いころから親しんできた。特にこの数年は縁あっていろいろなところの神社仏閣にお招きいただく機会に恵まれてきたのだが、高千穂の神社さんは、京都のとも違う雰囲気だし、出雲や伊勢とも違う。三輪や葛城などとも違う。高野山や熊野とも違う。それでいて、どこか懐かしい。初めての場所なのに妙に落ち着く。一人で知らない場所に居るのに、何も不安がない。
また、不思議な感じだったのが、昼間でも神社の手水が凍ったままであるほどの寒さだったにもかかわらず、神社はどこも“あたたかかく”感じられた。例えば、高千穂神社にある「鎮石」という石は「強い気を発している」といわれていて、そういうものを感じやすい人は「手がじんじんする」などというらしい。私は「じんじん」とは感じなかったのだが、ぬるめの温泉に手をつけているような感じ、と感じた。ちょうど寒い日にお風呂に足をつけた瞬間に感じる、ほぉーっとした感じ。でも、それは何も「鎮石」だけのことではなく、どの神社さんでもそんな感じがするのだ。
観光夜神楽を見学し(「観光」とはいうものの、土地の人たちにも愛されている感じがする、とても楽しいお神楽だった)、温泉に立ち寄って、一泊。翌朝早めに天岩戸神社を参拝した。
この神社さんのご神体は山肌にある岩戸そのもの。拝殿はその岩戸を隠すように建てられているのだが、社務所に申し出れば岩戸が望める場所に案内していただける。朝早めだったせいか、なんと神社には私一人。神職さんのお話を一対一で聞く。そして岩戸に案内されていくと、いきなり心拍数が上がった。自分が抱いた期待感の比喩として申し上げているのではなく、単純な事実としてそうなってしまった。驚きながら振り仰ぐとそこに岩戸があった。なぜか、ぼろぼろ涙がこぼれた。地面に流れ落ちるほど涙がこぼれるのに、自分が何故泣いているのかわからない。感情で泣いているのではないからだ。「泣く」という予想外の自分の反応に私自身が動揺し、横に立っておられる神職さんがへんに思わないだろうかとか(幸い、きれいに無視してくださった)、どこかで“なんでもないふり”をしたいような気持ちが働いていて、流れる涙を拭うべきか否かも判断しかねている一方で、私のどこかは妙に冷静で、一気に三つくらいのことを考えている・・・“考えている”というよりも“とらえている”というほうが正確なのだが、それが何であったのかを現段階で正確に言語化することができない。いつか何かのカタチでおもてに出す日も来るかと思うが、その“まんま”を話すのは違うような気がする。秘密とか、出し惜しみというのではなくて、ただ、「正確ではない」気がするのだ。大切なことを正確に伝えるには、それが私のモノとして実体化するまで、時間をいただかなくてはならないと思う。
その後、天安河原へ行ってみた。天岩戸神社近くにある場所で、天照大御神が岩戸にかくれたときに神々が会議をしたという場所だ。そこで石を積んでお願い事をするとどんな願いもかなうという。その場所の映像は何度か雑誌やテレビで見たことがあったのだが、見渡す限り累々と積まれた小石の河原の風景はどこか荒涼とした印象で、“こわい”感じがしていた。しかし実際に行ってみたそこは、清々しい場所だった。累々と積まれた見渡す限りの石の海も、それが人の祈りの数だと思えば、いとおしい気すらしてきた。人は、こんなにも祈り、願う生き物なのか、と思ったらかわいらしいと思えてきた。その中には真剣ではない願いや、不届きな祈りもあったかもしれない。だとしても。人は、何かを願いながら生きている。たぶん、幸福を。それが具体的に自分にとってなんなのか、突き詰める人は少ないのかもしれない。漠然と幸福を望みながら、何が幸せで何が不幸との見分けもつかないまま、表面的なことだけを“現実”と思い込んだり、その場をつくろうことを努力と思い込んだりして、何かを踏みはすしたりしながら生きているのかもしれない。だとしても。
人は自分の中にある望みを隠しながら生きている。それは結局、隠しきれることではないのだ。それが少し顕わになる場所が、例えばここ、天安河原や天岩戸であるならば、むしろ神話も現実に行き続けるストーリーなのだと思える。仕事をしていても、人が表面的に「望んでいると思っている」ことと、本当に「望んでいる」こと、行為していると思っていることと実際に行為していることの違うを散々感じてきたが、改めてこうした場所で、隠し切れないことがあることに希望を感じ、かわいいと思える自分がいる・・・というのは、自分にとっても“救い”に思えた。
意外と、人間が好きなのかも、私。