えこひいき日記

2010年5月19日のえこひいき日記

2010.05.19

眠っても、眠っても、眠いぞ、という日があった。たくさん眠って、普段通り支度して、事務所に行って、クライアントさん何人かのレッスンをしてから、ふと鏡を見て「?」と思った。何かが違う。「なーにが違うのかなー」と思いながら数秒間鏡の中を見ていて、やっと気がついた。まゆ毛、描いていない。

男性諸氏には縁のない方も多いと思うが、女子はたいてい、化粧する際にまゆ毛を「描く」んである。
「描く」。
この言い回しからして不思議ではないだろうか。常々思うのだが、他の部分へのお化粧は、「まぶた」にアイシャドゥを「入れ」たり、「まつ毛」にマスカラを「塗」ったり、「唇」に口紅を「塗」ったり、「頬」にチークを「入れ」たりするものだ。これらの「塗る」「入れる」と「描く」はちょっと違う心地がする。まぶたとか頬とか、まつ毛や唇に施す化粧は「そこにあるものを強調する」という化粧の仕方だ。でも、まゆ毛って、毛が生えているところと生えていないところがあって、生えていないところにも生えているところと同じような質感を生じさせるべく、「描く」んである。そしてまた、この描き方に悩むんですわ。変なカーブ入れると、とことん変な顔になれるから。まあ、この作業だってほかの部位同様の「強調」なんだが、「強調」の仕方がでかい気がするのだ。なんたって、ない部分まで描くんだから。
そんなわけで、私はいつも「まゆ毛が生えていないところ」を自分の「まゆ毛」にする度に、ちょっと不思議な気分になる。
「ない」ものを描いている。
「ないもの」を描き足した顔が私の「普段の顔」になっている。
私の顔って、なんだ?

化粧に不熱心であることが幸いしたというべきか、普段から不幸なのか、わからないが、まゆ毛を書かないまま人前に出ても、私の顔は強烈には異様ではないようだ(もちろん、そんなことを思っているのは私だけで、他の人から見たら十分変なのかもしれない)。ただ、ほかの部分には一応化粧をしている分、落差は生じる。いつもより目の周りの化粧が濃いような印象。

そういえば、いわゆる「アゲ嬢」系のメイクが好みという人の中には、「あえてまゆ毛を描かない」人もいるらしい。理由は「そのほうが目が大きく見えるから」。単に「描かない」だけではなく、生えているまゆ毛もファンデーションで「消し」、唇の色もファンデーションでおさえて「消す」こともする。そしてつけまつげをはじめとするアイメイクはばっちり行う。確かにそのようにするとコントラストは強烈につく。顔に「ある」のは目だけ、みたいな印象になる。ある意味、アンバランスで、不自然な強調された顔なんだけれど。でも、不自然で奇妙なものであっても、それが「意志」に基づく「美」として誰かに伝わり、認知されることはある。それは「上品」というカテゴリーの「美」ではなく、「奇抜」で、受け入れる人を選ぶ「美」にもなるんだろうけれど、人の目を引き付ける魅力も備えている。
「美」にもいろいろある。何が美しいかは、その人の「意志」次第なのかもしれない。

古代、化粧は「魔除け」だったという。古代人がよく肌に入れていた様々な文様の入れ墨、あるいはいろいろなシンボルや貴重で美しい石などをあしらった装身具は、いわば自分が「魔」に侵されないための「結界」だったという。「魔」は目に見えないものとは限らない。例えば古代エジプトでは暑くてハエなんかもいる環境から、眼病予防の目的もあって目の周りを鉱物由来の顔料で隈どる、という化粧方法が貴族の間で一般的であったという。頭髪も男女問わず剃って清潔を保ちやすくし、その代わり鬘を作ってかぶっていたという。「眼病」や「しらみ」なんかという物理的な「魔」を払う「化粧」としてアイメイクやかつらが用いられていたというわけだ。
現代ではどうだろう。意外と古代から変わらず、目に見えたり見えなかったりする「魔」から自身を守り、これまた目に見えたり目に見えなかったりする「幸運」を呼び寄せる術として化粧や装いは機能しているように思う。まだ出会っていない素敵な誰かを呼び寄せるための美しい装い、知りもしない誰かから悪く思われないたり、変に目をつけられないための装い。オフェンスとディフェンス。自己と他者の結界にして接点。人間の身体の、皮膚の上に施される人間の意識の具体化・・・
それは化粧のみならず、身体所作そのものがそうだよな、と思う。その人の身体の使い方を見ていると、その人が何を呼び寄せようとし、何を遠ざけようとしてきたのか、納得してしまうことがある。

人間にとって身体とは何だろう。そんなことを考える。

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