えこひいき日記

2010年6月11日のえこひいき日記

2010.06.11

今朝、事務所に来てみたら鳩の雛が一羽死んでいた。
死んだ雛は、もともと少し体格の小さな雛だった。孵化した2羽の雛たちは仲良く育ち、ピンク色のゼリーの塊のようだったのに、短い毛が生え、それがだんだん「羽の元の毛」っぽくなり、開かなかった目も開いて、ぐにゃぐにゃだった首も据わるようになった。しかし目が開くくらい位から2羽の雛たちの体格の違いがさらに著しくなってきていた。そのころは、そろそろ親が運んでくるピジョンミルク(親が食べた物の消化物)を食べるようになったものの、食欲の差があったようには思えなかった。特に大きな雛がどん欲だったり、小さい雛をいじめるなどの行為をしているわけもない。だから小さな雛はけして搾取された犠牲者ではない。ただ、命とはこうしたもの、という姿を見せているにすぎないような気がする。
でも生き残ったものには生き残ったもので、それを見る者から勝手なイメージが張り付けられてしまうこともあるし、死んでしまったものについても、やはり勝手にイメージが張り付けられてストーリーを生んでしまう。まあ、私が感じていることだって、ある種のストーリーなんだが。
残された大きな方の雛は、今も小さな雛の以外の上に座っている。まだ足が立たないのだ。小さな雛の遺骸は巣の中の小枝や排泄物にまみれながらミイラ化していっているようだ。こちらからはその風景が見えてはいるのだが、大きな雛の巣でもあるので手が出せない。というか、出したくない。これは彼らの領分なのだ。
大きな雛が小さな雛の遺骸の上に座る続ける光景は、ある種残酷にも見えるかもしれないし、鳩という生き物が人間より無知なのだ、という印象を生みだすかもしれない。確かにそう思う人間と同じ感情や感想を持ったうえで、その行為を行っているとすれば、その通りだろうと思う。
でも、大きな雛はただ懸命に生きているように思える。死は、眼中になくて。まあ、それだって私の「ストーリー」なんだが、わざわざ嘘を言っているつもりはない。
それがだれの目から見ても等しく正しいかは知らない。ただ、私にとって、そうみえる、という「本当」なのである。

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