えこひいき日記
2010年7月12日のえこひいき日記
2010.07.12
報告が遅れましたが、窓枠に作られた巣で育った鳩は無事に巣立ちました。6月の、満月のころかな。満月の日は外で仕事をしていたので定かではないが、翌日の朝事務所に出てくるともう鳩はいなかった。
早速窓枠を掃除。そして取りよけネットの位置などを直し、鳩が入ってこられないようにした。雛だった鳩は毎日やってきている様子だが、特にこの場所に強い執着を示すことなく(無理やりネットを破ろうとするとか、ね)ただ大人しく窓のそばにきては、また飛んでいく。執着を示すのは親鳥の方である。何とかネットを破ろうとし、昨日などはほんの少しの隙間から入り込んで、出られなくなっていた。なんちゅーやつ。鳩を追い出した後、その隙間も埋めたけれど。
こういう執着が彼らの意志や感情というべきものによるのか、本能というべきものなのか、わからない。ただ、いずれに基づくものにしろ、彼らにとって「ここ」は「子育てに適した環境」として「実績」のある場所なのだろう。私とて、けして感情的に彼らを廃しているのではなく、本能というより意志なんだが、ただやっぱり困るんで淡々と鳩の侵入を阻止し続けるのである。ごめんね鳩。
鳩の巣立ちと再ブロックというのもある種の「変化」「新しいこと」と呼べるかもしれない。ついでに新しいことといえば、2つ。イームスのロッキングチェアを買ったことと、事務所のテレビが地デジ化したこと。
私は造形物として椅子が好きである。
こういう妙な仕事をする人間が「椅子が好き」などというと「腰にいい椅子なんでしょうね」とか「健康によい椅子を集めている」とか思われがちなのだが、必ずしもそうではない。私個人の身体においてそれらが「腰に悪い椅子」「健康によくない椅子」というわけではなく、もちろん実用に耐える椅子たちなんだが、いわゆる「身体によい」という目的で購入したわけではないのだ。
だいたい私には「健康」という言葉が何を意味するものなのか、ぴんと来ない。椅子にしたって、如何に人間工学とやらに基づいて合理的に作られたものであっても、ユーザの使い方(椅子の、であり、自分の身体の、である)とかみ合わなければ、身体をいためることが出来る品物になりうる。物だけで購入者の「健康」を作ることなど、無理なお話だ。
そういえば先日棒出版社から「健康についての本を・・・云々」というお誘い(?)を受けたのだが、本気で「??」と思った。一般的な概念からして、私の仕事が「健康」に関係する事柄だ、というのは理解している。しかし、申し訳ないんだが実感がない。個人的な実感としては、「身体にいい」という理由やそれに優先順位の上位を与えることは、あまりない。強いていうなら、そういう「健康」は私の「快適」や「快楽」「よい、と感じられること」の構成分子だ、とはいえるかもしれない。でも主体でも目的でもない。ただの手段である。もちろん、重要な手段だとは思っているが。
話を元に戻す。
そう、イームスのロッキングチェア、買っちゃったんですね。お安く売っていたのを見つけたからなのだが、このロッキングチェアは好きなのである。本体がプラスティックだから軽いこと、典型的な木製のロッキングチェアと比べると背もたれなども低くコンパクトで限られたスペースでも置きやすいこと、50年前に生み出されたとは思えないデザイン、など。
それにしてもロッキングチェアって、特別な椅子だと思う。ロッキングチェアって、ロッキングチェアにしかならない椅子だと思うのだ。
靴を脱いで家屋に上がるがゆえに「座る」姿勢が多様で、コンパクトな空間に住んでいるからなのかもしれないが、普段の椅子に求めるのはある種の汎用性だと思う。例えば、いわゆるダイニングチェアでも、本当に食事のときにしか使わない椅子か、といえばそうではなく、時には書きものをしたり、読み物をしたりテレビを見たりするときにも使うかもしれない。たまには踏み台になったり、床に座った時にはテーブル代わりにもなり、物を置いたり飾ったりする台になったりするかもしれない。
それに対しロッキングチェアは、ロッキングチェアでしかない。
あれを食卓に持っていく気にはならないだろうし、踏み台にするのは危ない。ロッキングチェアは、「これに座ってしばしゆらゆらする」こと自体が目的、としかいえない気がするのだ。しかも前後だけね。普段、レッスンでバランス・ボールを椅子代わりに使ってみていると、動きがあるといってもロッキングチェアの場合はかなり制約がある。動くことの出来る方向や範囲も、リズムも。つまり、動くといってもボールのように様々な方向に動けるわけでもないのだ。それでいて、普通の椅子のように安定しているわけでもないから、それの使い方にも自ずと制約が生まれる。「制約」というと不自由のようだが、これは一種のアイデンティティでもある。ロッキングチェアはダイニングやデスクの椅子にはなれないし、私個人に関して言えば、ロッキングチェアに座ってテレビを見る気にもなれない。あの椅子に座ってサッカーなんかとても見ていられないし、音楽を聴くにしたって、真剣に聞くには向かない気がする。流れる時間を流れるままに楽しむBGMとして聞き流すのであればいいかもしれないが。つまり、外に意識を向ける作業に向いているとは思えない椅子。
そういえば、椅子は、会的なポジションの象徴でもある。「玉座」とか「王座」、「社長の椅子に座る」なんて言い方もある。実際、高い身分の人の椅子は同じ空間の他とは違った場所(高い所とか、特定の方向とか)に置かれ、大きさや素材や装飾にしろ、他とは差別化されたものが誂えられてきた。「上座」「下座」という言葉もある。どこに座るか、何に座るかは、何かを「示す」ことなのだ。据わるものの座り心地というよりも、外、他者に向かった態度として。
まあ、そんなことを考えて購入したわけではないのだが、書きながらそんなことを思い浮かべちゃったので書いちゃった。そういう視点から見ても、つくづく変わった椅子を購入したものだな、と思った。今。
私はどこに居たくて、座りたくて、この椅子を買ったのだろう。