えこひいき日記

2010年9月6日のえこひいき日記

2010.09.06

2週間ほど前のことになるが、梅田の阪神デパートで開催されていた『ゲゲゲ展』を観にいった。『ゲゲゲ展』とは「ゲゲゲの鬼太郎」の作者・水木しげる氏の原画等の展覧会である。NHK朝の連続ドラマ『ゲゲゲの女房』も放送中だし、水木氏は米寿(88歳)の記念として開催された展覧会。

私が原画を拝見して感じたことは、一言でいうと「無垢のいのち」であった。
妖怪たちはさまざまな姿をしているし、一般的にいうところの「美しい」容貌ではないものたちかもしれないが、ここに描かれているものの本質はそういうものなんじゃないかと思った。水木氏のいう「妖怪」とか「幽霊」というのは、単におどろおどろしい怖い存在、人間を脅かしたり、人間と対立したりするものではなく、授かったかたちは異なるけれども、「いのち」なんだ、という感じがした。何の役に立つとか、どういうふうにどっちが優れているというのでもなく、「いのち」があるだけで、それだけで美しいもの。
鬼太郎や妖怪たちの世代を超えた人気は、怪奇さや奇妙さにあるのではなく、その本質的な魅力を人々が嗅ぎ取るからではないかと思った。

そう感じる自分の気持ちに偽りはなく、ゆえに「当然」と感じる一方で、少し不思議な気もした。申し訳ない言い方だが、私は特に水木氏のファンというわけではない。私が子供のころにはもうテレビで『ゲゲゲの鬼太郎』は何度も放送されていたし、水木氏は既に高名な漫画家であった。子供のころにテレビを介して触れたものって、そういう感覚になりやすいような気がするのだが、つまり「鬼太郎」や「水木しげる」という存在は私にとって「強烈な関心を呼び起こさないほどに当然の存在」というか、私が手を伸ばして自分でつかもうとする以前にテレビ画面からこっちへ流れてきた存在だった。
そういう関心だったのに、何故原画展を観にいこうとまで思ったのか、自分でも不思議である。きっかけとして放送中の『ゲゲゲの女房』や、水木しげる氏の大ファンのクライアントさんがレッスンに来たりしたことは大きかったと思う。けれどもそのことだって「勝手にこっちに流れてきたもの」と思う可能性もあったのだ。だが、私はなぜか勝手に流れてきたものを自分の手で少し掬い上げてしまったようだ。アニメやドラマになってこちらに流れてきたものを眺めて見えるものではなく、原画を見ることで見えるものを見てみたいと、思うともなく思ってしまったのだから。

面白くなったので、水木氏が貸本として描いた『墓場の鬼太郎』を読んでみた。戦記ものも。今は筑摩書房から文庫で出ている。私はアニメの鬼太郎よりこの墓場鬼太郎の方が好き。大人になったからかしら。子供のときにこれを読んだら、親しみよりも怖さを多めに感じたかもしれない。でも、この感じのほうが自然、とも思った。妖怪と人間の距離感というか。共生とか、自然を大切にとか、生物多様性の重要性の理解とかを、べたべたした上に支配者目線で言い放つのではなく、わからないものや相容れないものが在るのはあたりまえ、ほっといたれや、みたいな感じで描かれているのがいい。妖怪とか野生に対しては、知っているけど放っておく(放っておける距離を保って生きる、というか)って正しい気がするのだ。

それは人間の中にある「妖怪的なもの」「野生的なもの」についても同じ。人間の中にある「妖怪的なもの」。それは「自分の知らない、まだ無名の、何だかわからない自分」。そういう「自分」の内的生存を許すこと。「自分の中の無垢な可能性」。「簡単に規定されたり支配されない自由」。

9人は、自分は「自分の知っている自分」だと思って生きている。それが自分の全部で、リアリティの全部だと、いつの間にか思い込んでしまっていたりする。でも、それは間違い。「自分の知っている自分」は自分の一部に過ぎない。そしてその小さな知の中にある「自分」は安全な代わりに窮屈だ。そんな小さな知に納まる範囲でしか自分を生きさせようとしないのは、とても窮屈なことだ。人が時に患ったり(煩ったり)広い意味で「生死の境」をさまようのは、この「小さな自分」の境界線を越えようとしての攻防だ。生まれ出ようするひよこが内側から自分の殻を破るように。もう小さな境界線内に留まれなくなった自分が、内側から自分自身にささやく。それはしんどいことかもしれないけれど、単によくない事とは言い切れない。むしろ大きな大きないのちのうねりのように感じる。
私はそのうねりを内に持つ人の味方でいたい、と思う。

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