えこひいき日記
2010年9月19日のえこひいき日記
2010.09.19
すごくがっかりすることがあって、昨晩は上手く眠れなかった。この仕事をしていればこの種の落胆することはたまにある。いわば、恐怖に取り付かれた人間が目をつぶったまま鉄パイプを振り回し、敵ではないものまで敵とみなしたり、自分が真に恐怖するものとは関係のないものまで殴り飛ばしても気がつかずに暴れている、というような事態に遭遇することである。その人はけして普段から凶暴な人間というわけではない。むしろ、普段から人を傷つけることを極度に恐れている人間だ。人を傷つけたり怒らせたり悲しませるくらいなら、自分がそうなったほうがよい、と思っているような人間だ。多くの人は「優しい」「気が弱い」と評するかもしれない。しかし、「自分が傷つけばいい」というのは、時に「覚悟」の振りをした「逃げ」なのである。また、普段から極度に恐れを抱えている人間は、常に限界に近い。加えて、怖いからこそ鉄パイプに執着するという逆説も持ち合わせる。そして何かの拍子に少しだけ新たな恐怖感が加わっただけで、本人は今まで積み上げたモノを全て振り捨てて「逃げ」てしまおうとしたりする。あるいは自分自身が一番嫌悪することをやってしまう。我に返ったとき、その人はひどく自分を責めるだろう。そしてまた人を傷つけることを恐れるあまり、人と関わることをひどく恐れるだろう。あるいはそうした葛藤から逃れるために事態を合理化したり、茶化すことでしか認識しようとしなかったりするかもしれない。それで暫時何とかなった気になってしまうかもしれない。そうして何も改善されず、問題の種を残し続ける・・・その繰り返しを私は絶ちたかった。本人もそれを望んでいなかったわけではないと思う。でも、鉄パイプを握らない勇気よりも、握りなれたものを握る方に逃げてしまった。
習慣やクセを変えるのは、なんと難儀なことか。
私がどんな気持ちで、どう努力をしたところで、最終的には本人が自分で選ばなければ事態は動かない。それはわかっている。でもやはり、がっかりはする。自分がしてきたことが無だったとは思わない。だが、胃の中に砂を詰め込まれたような感覚に襲われる。ここはレッスンの場だから、相手が世間的にいうところの暴言や無礼を働いたとしても、それが本人の感情や思考を解放する過程で必要なことなら許容する。だが、それに対して無感覚でいるわけではない。殴られれば痛い。人間ですからね。でも、相手は気付いていない。私も痛みを感じることを。自分の痛みと劣等感に夢中な人間は、自分とは違う人間、自分より「デキる」と目した人間は、自分と同じところなど何もないと思っていたりする。無意識にだけれども。要するに、考えてみたことがないから気がついていないだけだが。
「レッスン」などというものを介(解)そうが、そうでなかろうが、人生は続く。レッスンやアレクサンダー・テクニックによって何かが大きく善くなる人はいるし、そのことは教えるものとして喜ばしい。でも、大事なのはテクニックではなくて人生なのだ。そのことを常に大事にしてきたつもりなのだが、思っても、思っても、届かないのかな・・・
ひょっとしたら私が間違っているのかもしれない。ひょっとしたら根本的に。私が悪いのかもしれない。傲慢で、鈍感で。ではどう自分を正すべきか。