えこひいき日記
2011年1月17日のえこひいき日記
2011.01.17
雪ですねえ。
京都市の街中でも積雪。さすがに人通りの多い道は雪もシャーベット状になっているが、路面温度の低いところでは凍っている場所もあり、時折滑りそうになっている人を見かける。私も滑った。急いでいないときは、それも面白いんだけれども。
昨日事務所からかえるときも雪で、折悪しく吹雪いてきた。私はマフラーを鼻のあたりまで上げて、雪に目を細めながら歩いていたのだが、そんな時にふと考えてしまうのが「こういう夜に野良猫たちはどうしているんだろう」ということである。そんなことを思いながら歩いていたら、目の前を猫が一匹は知って通り過ぎ、空き地に消えた。生きて走っているなじみの野良猫を見て、安心する自分が居る。でもそれは「目の前に凍死した猫が居るわけではない」という程度の安心であって、雪の中を走る猫の走りに「元気さ」をみる一方で、それがけして彼らの安穏な生活を意味しているわけではないこともわかっている。加えて彼らのために具体的に何かをしてあげるわけでもない。でも、サバイブしていただきたいと、願う。
そういう自分は善人か悪人か。きっとどちらでもない。
そういえば先月、伊勢神宮にお札替えに詣でたときに、おかげ横丁の看板猫(?)に膝に乗られたということがあった。それは猫が特別な愛情を私に感じたからではない。ただ、人間の体温で暖をとったのだ。
おかげ横丁の入り口にいる猫は、私が知る限り2匹いて、勝手に「陰猫」と「陽猫」と呼んでいる。猫好きな参拝客が多いのか、それとも普段猫に親しまない人をも引き付ける何かがあるのか、猫たちはいつも参拝客になでられていてまるで天神さんの「撫で牛」。そんななので、二匹とも人を怖がる風情はないのだが、応じ方はそれぞれ違う。「陽猫」は体格も大きく性格もおおらかなのか、撫でられると何らかの反応を返す。撫で方に応じて少し体勢を変えたり、鳴き声をあげたりと、反応するのだ。それに対して「陰猫」は体格も小さく、基本的に無反応。嫌がりもしないが喜びもせず、さながら柔らかい置物であるかのよう。それでも二匹とも横町の人々にも参拝客にも大変可愛がられている感じだ。
参拝を済ませ、横町に戻ってくると「陰猫」がひとりで道端にいた。「あら、ひとりなの?」などと声をかけながら近付くと、猫は同行の人間の靴の上に乗ってきた。どういう意味のふるまい??と思ったが、どうやら足が冷たかったらしい。ぬくぬくとコートを着た人間にとっては穏やかな日暮れ時でも、裸足でアスファルトに触れている人間より体温の高い動物にとっては厳しい冬の日なのだろう。猫が靴の上に乗っているという面白い光景を間近に見ようとかがんだ途端、猫は身をひるがえして私の膝の上に乗ってきた。そしてどんどん鼻ずらをコートに押し付けて、潜ろうとする。手の先を丸くしてコートにしっかりとしがみつき、降りる気配は微塵もない。以前にもそういうことがあったが(確か京都の東寺で。近所の道端でもあったけど)、私は20分ばかりもスクワットしたまま道端にいることになってしまった。
このような場合、抱きがちなのは「この猫が私だけに特別な好意を示している」と思うことであろう。知らない猫が膝の上に20分居座る、というのはけして「普通・普段」のことではない。その「特別」なデキゴトが「特別な関係性(ご縁)」を意味していると思いたくなる。あまつさえ、私は猫が好きで、しかも生活に猫が足りない状態。私的願望に溺れてしまうならば、勘違いできるお膳立てではあったと思う。
でも、冷静に見て、その猫は私という人間に関心があるわけではなかった。膝にしがみついていても喉を鳴らすこともなかったし、目を合わせることもなかった。個としての、個別ゆえに特別な関係が濃密に成立したわけではない。ただ、そこに居た私という熱を欲していただけである。
そういうと、「(野良)猫には情がない」という人もいらっしゃるかもしれない。このような欲し方・欲され方は、邪道、で、情がない、と。
そう言おうと思えば言えると思う。
でもそれは、“熱”を提供する側が“情”なり何なりの「見返り」を欲している、ということの表現に過ぎない、とも言えないか、と思ったりもする。
他者とのコンタクトが、例えばそこに「情」というモノを「持たなくてはならない」とするならば、それはとても「重たい」。もちろん重たくていい関係もある。重たさがほしいときもある。でも、関係することが自動的にそういう重たさを負わなくてはいけないとしたら、正直しんどい。「恩に着る」とか「恩に着せる」みたいな、欲することが負い目を生まざるを得ないような、「ありがとう」といいたいけど「ごめん」という気持ちになるような、そんなのって、ほんとに愛か。
濃密であるだけが、愛として確かなものではないような気がする。粘度のない愛、特にしがらむことを必要としない愛、というのもあるのではないか。
そんなことを思った。慈愛とか、対等な善意とか、いうのかな。違うのかな。要するに、普通の愛、だと思うんだけど。
「特にどうという関係なんてなくていい」なんてさらりと思えるのは、相手が猫であるからかもしれない。相手が人間だと、さらりと膝を貸し、双方とも負い目とか後ろ髪とか感じずにさよならできるのか、というと、自信がない。でも、基本、猫相手でも人間相手でも同じではないか、とも思っているのだ。
猫に出来たこと、人間にも出来るだろうか。わからない。そうなってどうするか、なってみないとわからない。でも、必要であればそういうことが人間にも出来たらいいな、と思った。
そう思ったことを、ふと、昨今の「タイガーマスク現象」を受けてちょっと思い出した。
何かをもらった人、そのことを負い目に思うな。堂々と受け取って幸せになってくれ。何かを贈った人、そのことをこれからも続く重荷か責任のように背負うな。その時やれることをやったんだと、密か確かに胸を張ってくれ。
そういうことが「普通」になったら、きっと「タイガーマスクさんたち」はマスキングしなくても「普通に」贈り物が出来るようになる気がする。彼らがマスクをかぶる理由には、「贈られた」という「負い目」を相手に負わせたくないという、粘度のない優しさを持っているからではないか、と思うのは、私だけだろうか。