えこひいき日記
2011年2月6日のえこひいき日記
2011.02.06
節分も過ぎ、本格的に年明けである。
このところ、節分を高野山で過ごすことが3年続いている。節分の法要である「星供」に参列するためだ。今年の節分はそれまでの寒さとは打って変わって「3月並みの暖かさ」。とはいえ、高野山は雪・雪・雪。お山に入る前に龍穴神社や丹生川上、玉置などに立ち寄りながらの道中だったが、スノータイヤを装着していても梃子摺るほどの積雪。それでも例年よりは暖かいのであるが。最初の年にあっという間に風邪を引いた思い出のある私は厚着で法要に臨んだ。法要は今年も和やかに終わった。
夜、外に出て見上げると星がとてもきれいに見えた。天の川も。京都市内では晴れた夜でもさすがに天の川までは見えない。普段見えないものが見える。在ることが確かめられる。それはシンプルな感慨と確信をもたらす出来事なのだった。
以前にもこの「日記」の中で書いた覚えがあるのだが、節分の星供では文字通り「星」、あまねく宇宙が供養の対象になる。
「あまねく宇宙」をどのように想像できるか、受け止められるか、それは自分のリアリティが勝負だ。
「宇宙」と書くと漢字二文字のことだが、自分のシナプスの使い道をそこで終わらせてはならない。「宇宙」とは何か、そこにあるものを出来るだけつぶさに思い浮かべる。自分の知っている星々の名前から上げていくのでもいい。太陽とか、月とか、水星とか。そして星雲の名前、正座の名前、そしてその間にある空間を思い浮かべていくといい。ブラックホールとか、超新星とか、宇宙で起こる(とされる)現象を、知っている限り思い浮かべてみるといい。普段は全くと言っていいほど考えていないことなのに、意外と自分の中に「星」に関する記憶が眠っていること気がついたりもする。それも自分の中に仕舞われた「記憶」という名の「宇宙」と呼べるものなのかもしれない。そして、自分の知っている宇宙、思い浮かべられること宇宙以外にも、宇宙があるかもしれない、いや在るに違いない、と思ってみる。
それは恐怖か、開放感か。
そのあたりは人によって違うのだろうと思う。私も怖くないわけではない。どこかにすーっと吸い込まれてしまうような感覚とか、深い深い穴や、生き物の気配も消えた秘境できれいな泉の湧き出るところをじぃっと見つめているような感覚になる。
でも、それが嬉しいと思える今年も、という感じなのだった。んで、なんとなく、嬉しくお山を降りてくるわけである。
そういえば、龍穴神社の奥宮に向かう雪の中で、鹿に出会った。カーブを曲がって、いきなり目が合った鹿は雄で、立派な角があって美しかった。鹿はすぐに身を翻して山中に入っていったが逃げすぎることもなく、そっと身を隠して距離を保っているのだった。お参りの帰りに「もう鹿には会えないのかなあ」などと思っていたら、いきなりまた同じ鹿に出会った。今度はファミリーで、オスの鹿のほかにメスと二匹の子鹿がいた。鹿たちはやはり素早くこちらを避けたのだが、逃げすぎることなく木立の中から私たちを見送っていた。こちらにお尻を向けたまま顔を向けることも出来るという、人間には出来ないが彼らには自然なポーズで。
美しいなあ、と思った。誰かに見られているから、とかじゃなくて、どう思われるか、じゃなくて、ただあるようにあって直感的に美しいような存在に自分はなれるんだろうか。そんなことを思ったりする。