えこひいき日記

2011年3月2日のえこひいき日記

2011.03.02

今年は何かと変化の多い年とは思っていたが、今アフリカで起こっていることは想像を超えている。エジプトのムバラク大統領の退陣にも驚いたが、今はリビア・・・。カダフィ大佐、なんやろね、と思ってしまう。この人は何を思って何を言っているんだろう、と本気で不思議に思う気持ちをとめられない。理解は出来ないけど、こういう人間がいるんだ、ということは認識するところから始めざるを得ない。いいとか、わるいとかいう以前に。
なるべく血が流れないでほしい。「最後の血の一滴まで戦う」なんて、秋葉原で起こったような無差別殺人を大規模にやっているに他ならない。どうきれいごとを並べても、もう自分ひとりが「死ぬ」こと(生物としての「死」という意味だけではなく、「自分だけが不利益をこうむる」「不幸になる」みたいな意味で)を恐れての「わがまま」でしかない。
犠牲が多くなるということは、それだけで本来望んだものを見失いやすくする。そういうのは、単純に辛い。

ところで唐突だが
私は「信頼できる無意識」を持つ人が好きだ。
私は普段、ひとが「無意識に」行っている動作や思考パターンを「意識化」してみることを教えている。だから「信頼できる無意識を持つ人を信頼する」というのは矛盾したことのように思われるかもしれない。だが、そこでいう「無意識」と「信頼できる無意識」は似て非なるものなのだ。言葉としては、同じ「無意識」という言葉を使わざるを得ないんだけれども。
「無意識に」の「無意識」は、いわゆる「癖」。いわば草原につけられた何かの跡、「獣道」のようなものだ。そこが通りやすい、あるいは通る必然性があるからそこに「道」(ルート、やり方、その方法)が生まれるともいえる。条件や状況が安定している限り、その「道」が確実、確実という意味で「唯一の道」であるかのように思われたとしても、それはけして間違いとはいえない。しかし同時に、「道」はあくまで「今まで通られた痕跡」に過ぎないのだ。
その道を歩くのか、その道を歩かされるのか。
あるいは道などというものは「あるもの」を歩くのであって、自分には道など作れないと思い込むか。
どちらの立場になれるかは「信頼できる無意識」にかかっているような気がする。

自分の中に「信頼できる無意識」をちゃんと育てている人は、たとえ今窮地に立たされていたとしてもきっと抜け出せる。恵まれない状況にさらされるときもあるけれども、状況と戦いすぎず自分が本当には何を望んでいるかを吟味して期を待てば、望みが実現することは多い。これは私にとって経験的な事実だ。

時々勘違いされるようだけれども、才能や能力がある人間はけして無条件に幸福を約束された人間ではない。才能があることと、苦しまないとか、常にスムーズでスマートで幸福になれることとは、別の問題なのだ。だが、才能や個性があるから不幸になるというものでもない。むしろ(やはり)才能によって幸福になる確率は高いと思う。

自分がどんな「無意識」を持った人間なのかを知るには、自分が何を好きか、大事にしているのかを、普段から自分にそっと問うことしかないか、と思う。いざというときのために、ある程度自覚化しておくことは大事だと思う。言語化するとか。「自分が何を大事にしているか」ということこそ「信頼できる無意識」の骨格なのだ。
「いざ」というのは、自分で自分を信じられなくなるときのこと。残念だがこれも誰しも経験することみたい。才能の有無に関わらず。

人の中に「信頼できる無意識」を感じるとき。
例えば、それが初めてやってみた動き方であっても、自分にとってそれが「正しい」動かし方なんだ!わかることがある。なんでわかるのかはわからないが、わかるんである。もちろん、そうでない人もいる。既存意識の制約が強くて、「初めてやってみたことなのに、そんなふうに感じるのはおかしい」「気のせいかもしれない」と自分の感じたことを否定する人もいる。そういう人が信頼しているのは自分の「足」ではなく「獣道」の方なのだ。その段階では。でも「獣道」を信頼して導かれた先はどこだったの?本当はどこへ行きたいの?ということが問えるようになってくると、変わってくる人もいる。
クライアントさんで作品作りをしている人たちの作品に触れるときもそれを感じる。どうして踊るのか、どうして描くのか、どうしてそう思うのか、どうしてそれができるのか、それは本人の「必然」の中からしか生まれない。自分の中の「必然」と向き合うのは時に苦しいことで、すぐそこに何かが見えているというのに、それが何なのかわからなくて自己不信に陥ったり、取り出し方が分からなくて苦しむ現場を私は何度も見てきている。それでも、「それ」が見えた時の輝きはすごい。
こうしたことは何も運動やアーティストの専売特許ではない。たとえばうつ等の精神疾患が改善する時にもそれをみることがある。なんだ、自分の「本来」とアクセスすればいいだけじゃん、みたいなことはよくある。

とはいえ、自分の姿やら心やらを偽らずに見据えるには、それなりに勇気がいる。それをしたくない人に無理強いする気はない。それでその人がどういう方向に進もうとも同情しないことにしている。だって生きているって、多分そういうことだもんね。人にいいからとか、悪いからといわれて歩くもんじゃない。人からのいいこと・悪いことを参考にするにしても、それを「する」のはやっぱり自分だから。

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