えこひいき日記

2011年5月17日のえこひいき日記

2011.05.17

ここ6~7週間くらい、報道番組を見る時間が減った。正確には、自分で意図的に限った。朝と夜のニュース番組をそれぞれ1時間くらいチェックはするが、それ以外は見なくなった。
で、テレビを見なくなったのかというと、そうではない。録画したドラマを見ていた。BSで一挙放送された『ダメージ』の録画を。何度も繰り返し見て、あんまり面白かったのでDVDも購入した。3シーズン分。

本筋とは関係のないエピソードだが、『ダメージ 3』の中にこんなエピソードがあった。
この第3シーズンでは「家族」というのがテーマになっている。登場人物のそれぞれが家族を思い、同時に「家族のため」と「自分のため」の違いに悩み、家族を守りたいと思っているのにとんでもないことになっていく・・・というお話なのだが、その一つに、若き法律家・エレンの家族問題が描かれている。
彼女の家族は両親と姉。平和で平凡な過程に思えたが、姉夫婦の結婚が危機に瀕していて、姉が麻薬売買に手を染めていることが発覚する。そして姉が嘘をついていることも。姉を助けたい気持ちと許せない気持ちの中で、エレンは悩む。そんなときに、夢にある女性が出てくる。その女性が誰であるか、エレンの記憶にはない。しかし古い写真を調べていると夢に出てきた女性が写っているものが見つかった。母や、拘留中の姉に聞いてもこの女性が誰か隠すようで、教えてもらえない。エレンは彼女の姿に懐かしさを覚え、潜在的に「ある期待」を抱くようになる。そしてエレンはその女性の居場所を突き止め、会いにいく。
結果的に、その女性はベビ―シッターだった女性だった。その後、彼女は夢?(潜在意識というか、ココロの中の会話というか)で亡き婚約者と会話する。婚約者は「何を期待していたの?」と聞く。エレンは「たぶん、ばかみたいなこと」という。

そういうちょっとしたエピソード・シーンなのだが、なんだか印象的だった。
エレンが期待したこと。それは「私はこの家族の子供ではなく、この女性の子供なのではないか」だと思う。ドラマの中では明言されなかったけれど。
どうして今の家族の子供ではなく、他の家の子供であることが彼女の「救い」になるのか。

シーンとしては逆のクライシスは多くドラマ化されているように思う。
例えば、仲良く暮らしていたか家族の子供が何かのきっかけで戸籍謄本などを見ることになる。そこで自分がこの家族の実子ではないことが発覚し、子供は動揺し、急に反抗的になって暴れたりする。
この手のシーンを見るたびに私が困惑したのは「家族の意味」だ。この事実を知って「ショック」というのはわかる。しかし、その子供は血のつながった家族でなくても、とてもかわいがられていたわけだ。ということは、その子供がかわいがられていたのは「血のつながっている」という理由からではないはすだ。「血のつながり」と「かわいがられる」に直接的な理由や関係はないのである。しかし、子供のほうがそうは感じない。「実子ではない」ことがそれまでの生活までも嘘であったかのような、これからはこれまでのような幸せは得られないと決まったかのような気持ちにさせている。
それは「血のつながり」というものにある「約束」や「保障」を感じているからではあるまいか。生まれついた運命というか、誰かや何かからの、自分という存在に対する絶対的で運命的な約束と保障を。迷いから一番遠い絶対的な「意味」を。

この2ヶ月くらい、レッスンで何度となく「生きていることの意味」についての会話があった。多分、普段よりもさらにたくさん。
「私が生きている意味はなんなのだろう」「意味のある人生を送りたい」「何のために生きているんだろう」「こんなことが起こるなんて、神様はいるのだろうか」「こんなことが起こることに意味があるのだろうか」「どういう意味があってこんなことがおこるのだろう」「自分が生きている意味を知りたい」・・・

表現の仕方も、表現のテンションもさまざまだ。だが共通しているのは「よりよい人生を送りたい」「人生の意味がよりよいものであってほしい」と思っているということ。その願いは正当だし、素敵だと思う。
ただ、「意味」という言葉を使って問いかけたいとき、人は必ず迷っている。苦しんでいる。その苦しみが苦しくて、もしもこの苦痛が何かのため、よりよい、より価値のあるもののためだったらはげみになるのでは・・・と考えたりする。この苦しみにも意味があってほしい。必ず与えられる対価や褒賞があってほしい。この苦しみが「正しい」ことで、何か大きく自分を肯定してくれる存在から「よくがんばったね、いいこだね」といわれる日が来てほしい、と願う。解決策を探すというよりも、肯定感を得たい、という気持ち。そう思いたくなる気持ちは、わかる。

でも、逆説的に問いかけてみたい。もしも、その苦しみに特に対価はないかも、といわれたら、あなたは苦しむことを止められるか。もしも人生それ自体に意味はないかも、といわれたらあなたは生きるのを止めるのか。

苦しむ以外の方法で解決への道を見出せるなら、そっちのほうがよい。その方法しかなくて、それには苦しみが付いてくるとしたら、なるべく苦しみ過ぎないように苦しむしかないだろう。私の知る限り、どう向き合ったかが、後々意味を生む。生きてみて、それが後々「意味」と呼べるものになったりするらしい。それを生きてみる前に意味を知ることは難しい。予想くらいは出来るけれど、予想以外のことが起こるのも人生だし、予想以外のことを受け入れなくてはならないのも人生だ。それがいい出来事なのか悪い出来事なのか、簡単にはわからない。生きてみないとわからないのだ。

人は人生の作り手であって、人生に仕える立場ではない。カズオ・イシグロの『私を離さないで』を読んでいてもそう思う。

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