えこひいき日記

2011年7月3日のえこひいき日記

2011.07.03

思えば5月からこっちはけっこうハードだった。仕事関係のことでうまく眠れない日も続いた。少し込み入ったメールを返信するにもろくに机に向かう暇がない日々もあった。でもそれでもそういうことは、終わるのである。必ず。自分が予想した終わり方であったりなかったりするけれど、それでも、終わってくれるだけで十分幸いだ。

関係ないが、事務所・書斎の卓上カレンダーにはなぜか5月の紙がなく、6月のが2枚入っていた。そのことに気がついたのは5月のことだったので、今さら販売元に何か言う気にもならず、5月の間は6月のカレンダーを飾り、7月には入ってから2枚の6月分を一気に入れ替えた。入れ替えてしまってから思ったけれど、なんだかそういうスケジュールだったような気もする。カレンダーが予言したわけでもないけれど。それにしてもこういうことってよくあるのだろうか。私は初めてだ。きっとそうあることではないと思う。ちゃんと検品もされているのだろうし。

6月末から暑くなった。7月には入ってからは「節電」。以前から冷房と扇風機を併用していたが、今年は事務所に節電で音が静かな対応の扇風機を導入。そうしていると室内はそこそこ涼しいが、帰宅するまでの道のりできっちり汗をかく。暑いだけでなかなか疲れるもんだね。帰宅直後のシャワーと、頻繁に昼寝することが私の生活に仲間入りした。それはなかなかよい習慣のような気がする。さっぱりするし、疲れを抑えられる。この2週間くらいは、暑さで体調を崩したクライアントさんからの連絡がけっこうあったが、昼寝、お勧めである。もちろん、それが状況的に可能な人と不可能な人がいるとは思うけれど。

眠っている間は、仕事は出来ない。あたりまえだけれど。でも、眠っていた時間を起きていて仕事していてはかどるか、というと、はかどらないんだな、これが。少なくとも私の場合、眠らないで何かいいことを考えつくのは、あまり得意ではない。何も考えずに体を動かすことはかろうじて出来るが、能動的に考えるとか書くとかいう作業に当てるのは難しい。一旦眠ってから何かするほうがすっきり出来るように思う。
しかし「一旦眠る」は「行為の中断」を意味する。それが怖い、というクライアントさんは少なくない。再開できないんじゃないか、それは集中力を欠いた、怠惰で不完全な行動なのではないか、と思ってしまうようだ。私の中にもそういう懸念が微塵もないわけではない。でもこのままではできないことをそのままのやり方で続けていてもしょうがない。どうせできていないんだし。一旦離れてみて、それで戻ってこなかったとしても、それは結局何を失うことでもない。単にそのままなだけだ。何も変わらなかったとしたら、多分、今の自分では「できない」というのが背負うべき結果なのだ。まみえるべき結果に出くわすのを恐れてただ行為に没頭することは、逃避に過ぎない。逃げたいなら逃げてもいいと思うけど、それがしたいことでないのなら、思い切って少し方向転換してみるのもよいと思う。

ところで謎が増すのはうちの猫である。相変わらず、何を考えているのかわからない。というか、考えていない気がする。相変わらず感じ取れるのは「♪~」なのである。
基本的に機嫌よく暮らしてくれていることはよいことなのだが、人間の私が大変当惑している。逆に言えば、これまでうちに来てくれたネリノさんやメフィーさん(猫の名前)が特殊だったのだろうか。「猫」の概念が彼ら中心に形成されている私がオカシイのだろうか。彼らには明確に「意志」というものが感じられた。覚えている限り、最初から。単に「おなかがすいた」というような「表明」を「意志」と言っているのではない。彼らには、いわば「スタイル」があったのだ。部屋の何処に居ることを好み、それがなぜかとか、毛づくろいの手順とか、敷物の好みとかがあり、それに外れることに対しては明確な「No」の意思表示があった。
今の猫での特徴的なところは「No」がないことなのかもしれない。「No」の表明としてうなったり、「シャー」と言ったこともない。抱っこが嫌いとか、このご飯が嫌いとか、ほとんどない。一度とあるパウチご飯を出したときに、なぜかびくびくとへっぴり腰で食べたものの、食べ休むこともなく完食。様子が怪しい食べ方だったし、他にもっと大喜びで食べるご飯があるので、それ以来そのパウチは出していないのだが、あれを「否」のサインとするならば、なんとかそけき意思表示だろう。完食もしたし。

・・こう書いてきて気付いてきたけれども「No」というのはその者の意志とか個性を知る上で、重要なサインなんだな。そういう意味で、私は彼の個性を測りかねている。
いい子ではある。トイレも間違わないし、人間のルールを侵犯する(大事なモノを壊すとか、乗ってはいけないところに乗るとか。シーツやブランケットの上で毛玉を吐いて洗濯物を増やすとか、朝の5時に起こすとかはあるが、これはカウントしない)こともほぼない。でもそれは、彼の人間に対する関心や期待が低いからではないか、という気もする。ネリノさんやメフィーさんは常に人間のすることに関心を示したし、そこで見たことに対して「意見」を表明してきた。しかし彼が今のところ明確に示すのは食欲のサインのみ。あとは、勝手に寝て、こちらの様子に興味を示したり干渉してくることがない。それも含めて「よい子」と呼べるのかもしれない。都合はよいのだ。確かに。でも。

以前メフィーがお世話になっていた獣医は、「猫には(道理や理由を説明したり説得したりしても、話しかけても)わかりませんよ」とクールに言い放っていたが、「わからない」は「標準」にして「結論」なのだろうか。「ゴール」「デッドエンド」なのだろうか。
私の潜在的な勘は「No」という。それは「結論」ではなく「願望」なのかもしれない。眺めても眺めても、暮らしても暮らしても、何も見えてこないかもしれない。でも、まだ、わからない。

そのせいか、私は彼の名前が呼べないままでいる。もちろん、前の飼い主さんがつけてくれた名前はあるのだ。でも、個人的にしっくりこないでいる。何かもっと「彼の名前」と思える何かがあるのではないかと探している。何か、彼の本質の合う名前が。名が体を表すようなのが。思い過ごしかもしれない。わからなくても、平和あることで満足すべきなのかもしれない。でも。

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