えこひいき日記
2011年7月10日のえこひいき日記
2011.07.10
私は対談本を読むのが苦手である。読むのにすごく時間がかかる。私はたいてい本を買うとすぐに読むことのほうが多いが、対談本に関しては、途中で挫折することも多い。すごく時間がかかるからだ。
なぜ苦手なのか。
私は仕事で演劇の脚本なども読むことがあるが、あれは苦手でもないし、対談本ほど時間がかかるわけでもない。だから、単に会話形式で書かれているものが苦手、というのでもないと思う。
何が違うのか。
そうすると、こういうことではないかということが思い当たった。手順にするとこんな感じ。
会話形式で書かれた本を読むとき私は
1) 頭の中に登場人数分のパペットを用意する
2) それぞれの言葉に合わせてパペットが動き始める
のだが、ここから先が問題なのだ。多分、これが脚本と対談本の違い。
3) この分量の話し言葉を、どんな速度で、何処で間をおいたり、相手に目配せしながらしゃべるのかを想像しあぐねて、止まる。
4) 相手が話している間、対談相手はどんな様子で聞いているのか。微動だにしないのか、どこかのタイミングでうなずくのか、どんな座り方だろうかとか、そういうしぐさやリアクションを想像しあぐねて、止まる。
考えてみれば対談本は、行われた会話の忠実な記録、というわけではない。話し言葉でなされていた会話をそのまま本に収録しても、書き言葉したときにはかえってわかりにくいこともある。私自身、インタビュー取材を受けたときにそうしたのだが、最終的には書き言葉として読みやすいような「加工」が必要となる。実際にはしゃべらなかった言葉でも、意味内容を伝えるために書き加えたりする。だからそこに書かれていることをそのまま声に出して読み上げてみても、いわゆる人間の「会話」にならないのは、むしろ当然なのだ。
私は人間のする動きを割合具体的に考える傾向がある。職業的に必要なことでもあるが、それ以前に、多分、自分の傾向なのだろう。だが、「それしかできない」ではただの癖。出来ることを止めてみることもできるのがコントロール。そこで、「具体的に動作を考える」回線を切って対談本を読んでみた。そうすると、かなり読み進められることがわかった。まだ苦手だけど。
対談本の魅力は、文字通り、対話の魅力だ。「この二人が対話したらどんなケミストリーが起こるかしら」と期待できる人たちの「反応」の様子を収録している対談本にはそれぞれの単独の著書にはない魅力がある。出版社にとってはテープ起こしがメインの作業になるから作成が手軽、というのもあるかもしれない。「手軽さ」と「素敵なケミストリー」のバランスは本によって実にさまざまではある。本当に「相手の話を聞きながら話せる」人は少ないのだろう。読みやすいと感じる対談本は、上記の3)4)の想像が比較的自然にできる。それは「話す」態度よりも「聞く」態度に起因しているように思う。書き言葉に加工されてはいても、そのあたりの態度は文字に出る。文字も、態度や姿勢なんだな、と思うと、面白い。