えこひいき日記
2011年7月27日のえこひいき日記
2011.07.27
今年の祇園祭は巡行が終わるまで晴天続きだった。そして巡行が終わったとたんに台風が来た。なかなかすごいタイミングである。
そしてオスロでテロがあり、中国で高速鉄道の事故があった。人が人を酷く扱うのは見ていて心が痛い。
人は人を「仲間じゃない人」「自分(たち)とは違う人(たち)」「どうせ通じない」と認識したときに、その人に対してけっこう酷いことが出来てしまうらしい。守ろう・増やそうとするのは自分と「同じ」人たちだけ。時にはより酷いことができるほど、仲間への忠誠が大きいと判断するようなことさえある。テロのみならず、世にある「いじめ」も基本的には同じみたいだ。
だが「同じ」人なんて早々いない。共通性が多いグループの中でこそ微細な差異は際立つ。差異に排除や敵意しかもてないグループは、当然ながら自滅する。そうして孤独を増やすのだ。
考えてみれば、私たちは皆「知らない人たち」の中に生まれてくる。この世に生まれ出る瞬間、私たちは自分の親すらどんな顔のどんな人間か知らない。何の保証もないまま生まれてくるのだ。そして「知らない人」が「知っている人」になり、そこで生まれた関係に育てられて、人を信じたり欲したりする気持ちを肯定できるようになる。
でも、この世の中で「知っている人」なんて何処までいっても限られている。圧倒的に、やっぱり知らない人たちの中で生きているのだ。でも、多くの場合、「知らない」という理由だけで人は人を不幸にしようしない。する必要はない。だって、自分にとってなんなのかまだ「知らない」のだから。「知らない人」を怖がる人は「人」を怖がっているのではなく「知らない」を怖がっているのである。自分の中の恐怖のシナリオに反応しているだけだ。その時点では、まだ「人」に出会ってもいない。
知らない人との「よき」つながりを確実なものに近づける手段として「コネ」や「口コミ」がある。ただ、「コネ」が保障するものは関係性というより利害であり、「コネ」による人の関係付けはプレッシャーになりかねない。「口コミ」はそれに比べれば関係性においてプレッシャーレスだ。その分、無責任にもなりやすい。特に誰が言ったことかわからない場合は。でも「誰が」がわかる場合、これもまた「コネ」と同様プレッシャーの問題にさらされることがある。
信頼とプレッシャー。
集団と個。
それらは「どちらか」という問題ではないのだ。どちらが正しいとか、強いとか、そういうことではない。常に「どちらも」であり、ときに「よりどちらか」になる。今自分はどの辺りにいて、何処に行きたいと思っているのか、迷子にならなければプレッシャーも信頼に寄り添い、個は集団の敵ではないと思うのだけれど。
ところで新しい猫は「奏(そう)」と命名。名前をつけて、その名前を呼び、話しかける回数が増えたからかもしれないし、ちょうど猫が新しい環境に慣れてきたからかもしれないが、猫はより寛ぐようになった。トイレの回数も若干増え(相変わらずでかいが)、ご飯にがっつく感じも穏やかになり、歩き方とか身のこなしがより寛いだものになった。
祇園祭のときに、猫のために金魚を買ってみた。いわゆる「金魚すくい」の金魚である。私はいきのいい金魚の屋台を見つけるのが上手いらしい。とはいえ、そういう屋台はお祭りの縁日に一台も感じないこともあるので、まあ、そんなもんだ。金魚を買おうと思ったのは、動かないおもちゃよりは、動き回る金魚のほうが留守宅の猫の感覚を刺激すると考えたからだ。積極的に「いけにえ」にするつもりはなかったが、もしもそうなっても仕方ない・・・と思っている私は残酷なのかもしれない。
白磁の壷の中で泳ぐ金魚を猫は大変熱心に見ていた。あまりの熱心さについ笑ってしまいそうになるほどだった。大成功であった。そして予想通り、興味は示すが、金魚をいじめることはない。水を飲んだりはするけれど。
部屋を見回して思う。猫と金魚とメダカと観葉植物。奇妙な部屋といえるかもしれない、私は自分の平安を保つためにどうしてこれらの生き物の力が要るんだろう。