えこひいき日記

2011年10月1日のえこひいき日記

2011.10.01

ずいぶん涼しくなった。美しい季節である。

1ヶ月くらい前、私は汗だくになりながら80ほどの段ボール箱と格闘していた。自宅の引越しのためである。
引越し業者は大小70の段ボール箱とガムテープなどをくれた。それが「平均」とか「一般」からいって「多い」のか「少ない」のか知らないけれど、この箱たちが私の荷物にフィットすることを願っていた。
荷造りにはちびちび3週間ほどを費やしてみた。直前に一気に荷造りをするような体力に自信がないこともあったし、引越しの前日まで仕事が入っていたことも理由だが、私の引越しにテーマがあるとしたら「整理」だったように思う。あるいは「確認」。その作業に必要な3週間だった。自分には何が必要なモノで、何が大事なモノなのか。だから、とにかくとにかくパッキング、という荷造りでは私にとっては「引越し」する意味を成さなかったのである。
荷造りは、まずここ当面使う予定のない本や季節はずれの衣類や寝具等から始め、引越しの期日が近づくにつれて「当面」の範囲を絞り、ガスを閉栓してからは鍋や皿の梱包に取り掛かり、最終的にはトランクとリュックの中に「今(今日)必要なもの」を詰めていった。別の小さな手提げバックには雑巾とかガムテープとかウェットティシューとか、ねじ回しやはさみなどの工具を入れておいた。引越しの作業ではそういう道具が意外と不意に必要になるからね。

「整理」と「吟味」はなかなか面白かった。引越しの片付けをしていると、例えば必要に応じてバラバラに購入して使っていた種類の違うフックを集めることが出来たし、引越し先ではフックの種類と使用場所をそろえることが出来た。小さいことかもしれないが、意外とすっきりするのである。少なくとも、自分が何を既に所有しているのかも知らずに、目先の「足りなさ」にパニックすてモノを購入してしまうストレス・スパイラルからは解放されるきっかけになる。

あるのに、うっかりとしょうゆやら野菜やらを購入してしまうことは誰にでもあるかもしれない。持っている本をまた購入してしまったり、似たような服ばかり購入してしまったりということも、誰しも無縁ではないかもしれない。それら一つ一つのモノやコトはたいしたことではないのかもしれない。金額的にも、物の大きさ的にも。ちっちゃく失望することはあっても、金額的な損失の「小ささ」に支えられて「たいしたことじゃない、忘れよう」と思うことをその都度「解決」と見なし続けるのかもしれない。
「ない」モノをすぐさま埋めようとし、違うとこわかるとこの行為を「ない」にしようとする。いっぱいある、のに、ない。それがいわゆる「断捨離」などを必要とする状況を作るように思う。
「ない」にフォーカスし反応するのと、「ある」を認知できるのとでは、相当人としての状態が違う。

ともあれ、「整理」が出来てちょっと気分がよくなったのだが、同時に驚いたのが「私にはほとんど捨てるものがない」ということだった。80の箱の中身が全部「今の自分」の必要なもの、と思うのはなかなか重かった。正直言って。
「整理」という「再構成」はいくつもあった。さっきのフックもそうだし、ある分類でまとめていた本の並びを「この本はこっち分野に入れてみよう。おお、すっきり!」とか、そういうことはあった。そういうことで「すっきり」してしまえるから「みんな要る」ってことになるのかもしれない。でも捨てないで済む方策を探した結果再構成で済ませたわけではなくて、必要ならこの際じゃんじゃん捨ててやる!とわくわくしていたのに、「要る」と思ってしまったのである。自分でもびっくりした。引越しには「何かを変えたい」という気持ちもあったと思う。爽快感を得るのは大胆なやり方がふさわしいのだが、どうやら私にはこういう豪快(?)な方法が必要なわけではなかったらしい。微妙な気分。

引越しの最中は、目の前にどんどん箱を積み上げ、引越し先では、目の前をふさぐ大量の箱の山に一瞬絶望すら感じながらどんどん箱を開けていく、という作業に追われていた。追われながらふと思った。目の前を覆いつくす多くのモノ。これが全部「必要」な私とはどんな人間なのだろう。私は以前から美術館と図書館が合わさったような空間が好き、と思っていた。そのことから考えて、モノを持ちやすい性格なんだろうと思う。私にとって自分の「持ち物」とは自分の「見取り図」「地図」みたいなものなんだと思う。
しかし一方で、荷造りをしながら自分の「当面必要なモノ」というのはこれ全部というわけではなく、その時々の「当面」においてはトランク1個~2個なのだということも経験した。3週間はこの中に入れていたものは、3週間後に箱から出した途端ばりばり使うというものでもない。
では、これと、いわゆるゴミ屋敷との違いはなんだ?「違い」は、ある。でも、その違いは根本的なのだろうか。いや、ある意味根本的に違ってもいるのだが、同時に違っていないとも思う。僅かな違いの中で、私は混沌や迷惑行為と違う場所に居る。でもその差は微妙なのだ。微妙にして決定的。
私はこんなにたくさんのモノとともに何処に行こうとしているんだろう。

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