えこひいき日記

2013年10月14日のえこひいき日記

2013.10.14

膝の件ではお見舞いの言葉やお品、病院の情報などを寄せていただき、ありがとうございます!
本当に嬉しく、また心を支えられました。ありがとうございます。

おかげさまで、膝の調子はよいと思う。もちろん、「断裂する以前の動きが全て不安なくできる」という意味ではない。依然として出来ない動きもあるのだが、日常動作の類はほぼ困らずできるようになった。
できない動きも・・・例えば左膝を床についてのランジ姿勢などは不安定なことこの上ない。ヨガのアーサナにあるような、前の足は正面向きで、もう片方の足はそれに対して90度向きを変える(後方の足の土踏まずが前方の足のかかとの延長線上に来るような)かたちで大きな歩幅をとった姿勢で、後ろ足が左の場合、やはり「ぐらつく」「支え切れる感じ」が薄くて怖いと感じる。しかしやれないわけではない。毎日少しずつ試して、変化を継続的に観察しているところである。
正座もできるし、膝を伸ばしての前屈等も問題ない。しかし歩き続けると膝に、痛みというよりも違和感を感じることはあるし、「あ、ちょっとずれた。そのせいで膝の内側(または外側)の筋肉が詰まったような感じがする」ことはしょっちゅうだ。
動きという意味では、出来る。でも凄く違う。かなりキモチワルイ。今現在も混んだところを歩くときには緊張する。空いたところを歩くよりも、自ずと歩行のテンポやリズムに変化が大きくなり、細かい方向転換も多くなる。その分、膝がぐらつくのを感じる。とっさに人や自転車などをよけられるか、よけられたとしてもその度に膝に生じる不安定感に正直ひやひやする。
だがほとんど痛みがないので、ついダンサーのクライアントのレッスンなどしていると、いつものように回転したりジャンプしそうになって「おっと!」と思うこともある。あるいはまた、無意識に左足をかばうために上体をゆがませてしまい、かえって余分な負担を生産していることもあるので、見つけては修正…毎日そんな感じで、動きを確かめながら暮らしている。実家の介護の手伝いや犬の散歩も再開している。

そんなこともあり、また諸々のスケジュールのこともあって、再建手術を受けるとすれば、年末か来年早々になりそうだ。頂いた情報を基に、手術をお願いする病院を考えているところ。
しばらくはゆっくり迷います。

こうして怪我をしてみると、今までの日々以上に、また普段とは違う目的と視点で、自分の身体と向き合うことが増える。

そうすると、予想もしなかった発見がいろいろあった。

自分でも意外だったが、メンタル面で、私の中にくよくよする感じや恐怖感が少ないことだった。もっとこの状況を嫌になるかと思っていた。不安感や嫌気が微塵も無いわけではない。でも思ったより少なかった。自分がしんどいときにありがちな、他者への言葉や行動が自分の状況にジャストフィットでないときの苛立ちも、割と少ない。

フィジカルな面で、仕事の経験上、自分で自分を助けられる部分が多いだろうことは予想していた。
今、実際にしていることとしては、自分で勝手にリハビリ・プログラムを立て、怪我以来ほぼコンスタントに毎日1時間エクササイズや筋肉の観察をしていること。普段は自分自身にストレッチすら課さないのだから(私はいわゆる「運動好き」ではない。手前味噌に申し上げるなら、「からだの使い方」なるものが正確だから特別にエクササイズを課さなくても柔軟性が保てている状態にあった)「コンスタントに運動する自分」というのは意外性があるといえばある。脚への負担を軽減させる意図で重心をいつもより少し高めに保つことを意図し、体幹をターゲットにしたトレーニングも導入した。いわゆる腹筋運動なんかも含まれるのだが、好きか嫌いかといわれたらこの種の運動はそんなに好きではないので、そういうプログラムにまじめに(?)励める自分が意外といえば意外ではある。それに、意外と楽しい。

一方で、フィジカル面で自分をヘルプできる自分が大きくなりすぎることには、自分で警戒心を抱いている。
自分に今何が起こっているのかをありのままに感じることをかえって邪魔する可能性があるからだ。自分に出来ることと出来ないこと、それらを踏まえてこれからどうしていきたいのかを考えるのに、どのような過剰さであっても、邪魔である。
変な考え方かな。
あるいはこうも言えるかもしれない。ドライに言い放つならば、マイナスから持ち上げていくトレーニングは手ごたえが大きいのだ。それは既にプラスのものをプラスのままキープしたり、更なるプラスに持ち上げる努力とは感触が違う。後者のほうがずっと細やかで持続的な努力やエネルギーが必要にもかかわらず、目に立たず、自分自身にも他者からも評価されにくい。それに対して、マイナスをプラス方向に持ち上げるトレーニングの成果は、良くも悪くも、ターゲットが明確で変化も激しく、目立つ。「負傷」と「負傷部位」という明らかなターゲットがあることも、ある意味「感じやすい」「みえやすい」感じがして、妙にハイな状態になれたりする。実際、この怪我に対して自分のスキルが有効に働いていることを、常ならぬ鮮やかさで感じていると思う。健康なときは、こんなはっきりした手ごたえは生まれない。その派手な手ごたえと「遣り甲斐」に埋もれてしまいたい欲がないと言ったらウソになる。でもそれは、かえっていろんな物事の中心を「怪我」にしてしまう逆転を生みかねない。感覚や行動のバランスを崩すこともなる。
また、フィジカルなトレーニング、特にハード目で新しいトレーニングにせっせと励むことで、自分の中の正当な恐怖感や不安、あるいは身体からの現状報告を抹殺してしまうことも、私の望むところではない。それはいわゆる「行為に逃げる」という行為だ。「やっている気」「やれている気分」になりたくて、行為に依存する行為だ。多くのフィジカルな癖に基づく負傷や障害が、無意識的な「得意技の連発」によって成立しているように、できる(思いつくことができる)からといってそのことばかりを行うような行為は、危険なのだ。

…そう考えてみると、私はひょっとしたらとんでもない欲張りなのかもしれないと自分で思う。私が望む「回復」は、単に痛くなくなったり、単に「元通り」になることではないらしい。
もちろん、痛いのは嫌だし、怪我自体もぜーんぜんしたくないんだけれど、では、その事実や感覚を「消す」ことが望みなのかというと、どうもそうではないらしい。願わくば、怪我という経験や事態を「理解」した上で、今とこれからの自分に合った新しいバランスや「使い方」を見つけていきたい・・・どうもそれが私のイメージする「回復」らしい。
どこかで怪我にすら興味を持っている自分がいる。
怪我を心底不安がり、嫌がっていると同時に、それがどんなものなのか「興味」を持っている自分がいる。
どうしてなのかわからない。
自分でも不可解に思う。職業的興味でしょうかね…と言って収めてしまえば、理解なき「オチ」に落ちてくれることもわかっている。でも、「職業」だからだろうか。むしろ、こういう私だから今の仕事を「職業」に出来てしまったのかもしれない。

そうした私自身の出来事とはまた別に、この事態に対して寄せられるイメージとリアルの齟齬を、また興味深く感じている。このお話はまた後日。

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