えこひいき日記

2014年4月7日のえこひいき日記

2014.04.07

人間が集中したときに発揮する力って、すごい。
ソチ・オリンピックのフィギュア・スケート、浅田真央さんのフリーの演技とか、世界フィギュアの町田樹さんの演技とか、自分がへこみそうになったときにこれ見て立て直そう!と思うくらい、すごかった。

真剣になること、集中すること、本気になることは、素晴らしくも恐ろしい。
その感覚は、けして心地よく手触りのよいというだけのものではない。世界フィギュアを見ているだけで、選手や場の緊張感が伝染してきて吐きそうになるくらいだから、正直に言って、当事者が感じるその感覚は「素晴らしい」と同時に「超・居心地悪い」ものだと思う。
でも。
「そこ」に立たなくては見えないものがある。感じられないものがある。実現できないことがある。人が何故それに引き付けられてしまうのか、私にはわからない。ただ、あの「超・居心地悪い感じ」をも含めて、真剣になること、集中すること、本気になることは、「素晴らしい」のだと思う。ほんの一瞬だけかもしれないけれど、「このために生まれてきた」と思えるくらいに。

一方で、私は仕事で、ありとあらゆる手段を使って「真剣になること」「本気になること」「集中すること」から逃げ続ける人たちを見ることがある。
驚くことに、彼らの目標はオリンピック選手とそんなに変わらないものだったりするのだ。
そんなことを言うと「いや、オリンピック選手とはレベルが違うでしょ」と思う方もいるかもしれない。では、レベルが違うから真剣になれないのか、本気にならないのか、と問い返すと、これまた違うことがわかるのではないかと思う。「レベル」というものを具体的には何だと思っているのか(取り組んでいるものの難易度?それを行う人間の技術的・人間的優劣?)にも寄るが、「本気になる」ことと「レベル」は本質的には関係がない。

オリンピック選手が試合の場で「成功したい」「自分の持てる力を100%出したい」と思うように、オリンピック選手以外の人たちも皆、それぞれの場所で「成功したい」「自分の持てる力を100%出したい」と思っていると思う。

しかし「そう思っているつもり」で似て非なる感情に支配されていることがある。「失敗したらどうしよう」「負けたらどうしよう」とかね。そして集中と本気の対象があっという間に「失敗」「不安」の方向に移ってしまっているのに、本人が!気がつかない。「不安」の相手をすることが「真剣さ」だと勘違いしていることもよくある。

だが、浅田選手がインタヴューで答えていたように「不安」を相手にする行為は「雑念」なのだ。すべきことに集中している状態ではないのだ。「こんなこと(ショートプログラムの結果、そこから連想されるフリーの出来、人々の反応等々)が気になっているのは、まだ集中がたりないからだ、と思いました」と浅田選手が言っていたと記憶している。さらりとした答えっぷりだったが、渦中にあって(時間がうーんとたってからではなく)「そこ」に目を向けられる彼女はすごいな、と思った。一体どれだけのことを乗り越えてきたか。どれだけ自分にしかわからない自分を見つめてきたのか。世間がやすやすと認め、望む「かっこいい自分」だけではなくて、どれだけ自分に嘘をつかずに自分を見る努力をしてきたことか。

別の言い方をするならば、「不安」の相手をする人たちは「自分で自分にかっこつける人たち」でもある。私の目から見ると彼らの「かっこわるい」「してはならない」はそんなに不細工ではないのだが(たいてい、実に「ふつー」だったりする)、許せないらしい。彼らには見たくない自分、認めたくない自分を、見ない、認めない。事実や現実、その変化に基づくのではなく、あらかじめ「認められる自分」の枠が決まっているらしいのだ。その枠はたいてい、かなり狭い。かつ、枠で小さく区切っていること自体に気が付いていないことが多い。
そして本当の努力に費やすよりも、認めないためにとんでもないエネルギーを使って疲労しているんだが、その様相をなかなか理解しない。ただざっくり「うまくいかない」と思っているのだ。そして「私はだめな人間だ」「才能がない」「運がない」とあっさりオチをつけたがる。「かわいそうな自分」。
だから他者の「努力」も見えない。彼らは「出来る人だから、出来るんだ(運や、才能に恵まれ、生まれながらのいい人間だから)」と羨みながら蔑むように他者を評する。彼らの論理で言うと、オリンピックに出られるような選手は「できる人」に生まれついているのだから、出来て当たり前。彼らが失敗をしようものなら賞賛の何倍もの罵声を浴びせようとする。まるでそうすることが「大事な任務」のようにすら思ってここぞとばかりに燃える人もいる。まあ、まるごとやつあたりにすぎないんだが。
苦しみや不安を見つめて拡大することはするが、削減する努力はしない。削減努力を「逃げ」だと思っている節もある。その考え方に基づいているから、不安にかまけることは「真剣に頑張っている」ことなので、まじめでよい人間であろうとする彼らはまずます不安を大事にしてしまう。
もし彼らが本人が言うように「だめ人間」で、でも「だめでいいです」と思っていないのなら、まずはやれることからやってみたらいいじゃないかと言うと、「情けない」とか嘆く方にエネルギーを割くだけで何もしない。最終的に「こんなに情けないダメ人間が、こんなに嘆いているんだから、これ以上追い詰めないで、許せ」という。
苦を嫌っているくせに苦に依存し、他者が自分の苦に価値を見出すことを求めている。他者に幸せに「してもらう」意欲は高いが自分で幸せに「なる」勇気はない。それは「わがまま」で「罰が当たる」ことらしい。とってもややこしい。

だから指導者との関係も困難を極める。本人の感覚では「努力」は一様に苦しいものなので、それに向き合わせようとする他者(教師とか、親とか、医師など)を「弾圧者」であるかのように警戒するが、うらはらに「圧倒的で完全な力で(彼らに?彼らの持つ力に?)支配されて安心したい」と思っている節がある。
例えば私がレッスンの中で体験したことがあるのは、平易な言葉を使ったり、動作やそれに対してどう考えているかを考えてもらおうとすると「先生、もっと私に命令してください」と言ってきたり「テクニカルタームで教えてください」と言ってくることがある。妙なもので、彼らは「自分にもわかること」をいう人間をうっすら見下す。それに対して、「自分にはわからないこと」をいう人間を恐れ、尊敬しようとする。だから専門用語を連発したり、断定的なものの言い方をする方が「強そう」「偉そう」で「信頼できる」らしいのだ。それでいて、こっちが「真剣」になると「先生、怒っているでしょ。怖いです」「そんな難しいことはわからない」などと言いだす。
彼らの人生はほとんどこれの繰り返しで、どこかの先生の「弾圧」「無理解」から逃れて誰かの所に行き、そこでまた不満になって相手を「弾圧者」にして、去る。また、彼らのほとんどが、いわゆる「怖い親」に育てられた人たちであることも興味深い。「私は親のようにはならない」「嫌だった」と言いつつ、「そのような親」以外の「親(信頼・愛情)」像を自分の中で育ててこなかったので、大声や、自分にわからない専門用語、強い口調や決めつけなどを持つ人間を「親」のように見上げ、大声や決めつけを「信頼できる証」とイメージづけていることに気がつかないでいたりする。ロマンチックな言い方をするならば、「親」のような「強くて怖い人」たちの中に、今度こそはと自分の欲しいものを見出そうとすることで、見出した暁になんとか「親」との苦しい関係の記憶を書き換えようという夢をみているのかもしれない。
でも、適切に人を憎むには成熟した感性が必要だ。特に、それが自分にとって大切な人なら。

・・・とまあ、仕事を通してそうしたこと、人たちに多く出会うのであるが、正直言って、どーでもいいのだ。彼らが何とか生きていってくれるなら、それで。
私ももう、自分の「善」や理想で相手をしばきまくりたくなるような年頃でもない。それがわからない人がいたって、それでいい。

その一方で、一度も会ったことのない誰かの「本気」が、「集中」が、私の人生を救ってくれることがある。そういうのって、人生の不思議だなあ、と思う。目の前だけの人間関係が「人間関係」じゃない。それがまた巡り巡って目の前の人間関係に変化を与えることがある。
だから人生捨てたもんじゃないと思うんだよね。

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