えこひいき日記

2015年1月1日のえこひいき日記

2015.01.01

あけましておめでとうございます。ひつじ年ですよ。

テレビを付けたらウルブリンカ絶滅収容所のドキュメンタリーが流れていて、そのまま見てしまった。あぁぁ。新年一発目から。
でも一度見始めるとチャンネルを変えられなくなる。私は何に引き付けられ、集中しているんだろう。
私は決して熱心な人権活動家というわけではないし、幸福より不幸が大事な課題だと思っているわけでもない。こうしたドキュメンタリーを観ていて気持ちがいいというわけでもない。でもこうしたものの中からしか見えない何かがあって、私はそれに引き付けられているんだと思う。それを何と呼ぶべきなのかわからない。

「不幸」や「不安」を片端からの撲滅すれば自動的に「幸福」になれるほど、幸福は単純なものではない。少なくとも、つたないながら経験的にそうである。だから「幸福」は時に「不幸」よりむつかしい。理解するのも、得るのも。「不幸」と戦っているほうが「幸福」とか「平和」を維持するより単純なミッションだったりする。
そういうお話を結構クライアントとしていたなぁ、去年。

そういえば、年末に自分のことじゃないことで緊張することがたて続いた。
具体的には、クライアントの舞台やら、出場する大会やら、オーディションやら。たて続いたおかげで、いい加減自分でも気が付いたのだが、「自分のこと」より「自分のことじゃないこと」のほうに私って、緊張できるようになっているんだよね、今。
自分のことだと、緊張しない。
いや、全くしないわけではないのだが、他人のそれらを見ているときのように、緊張で吐き気がしたり、手が震えたり、終わった後までテンションが下がらなくて眠れなくなったり、体重計ったら1キロ減っていたり、などということはほとんどないのだ。自分が、例えば人前で講演するだとか、ややこしそうなクライアントを前にしてさあ今から何が起こるかわかんないぞ、みたいなときは、逆にまるで潮が引くように冷静になるのだ、最近。たぶん、そうしないと実際には対応できないことを経験的に知るようになったからだと思う。
でも、クライアントの何かに対する緊張は「感染(うつ)る」。いや、こんなこと、うつったって何の足しにもならないことなのだ。相手の緊張の緩和にもならないし、パフォーマンスを上げる足しにもならない。
やや暖かい言葉で自分の緊張を援護するなら(?)、まあ、肩入れしているから。応援の気持ち、なのである。うまくいけば、その気持ちだけは相手の足しになるかも。
でも冷たい言葉でばっさりやるなら、「自分のことじゃなくて、暇だから」なんだと思う。具体的に自分がすべきことがそこに何もないから、「緊張」という「すること」を作っちゃうんだと思う。その場はあくまで当事者のもの。相手と同調するチャンネルが「緊張」というやり方くらいしかなくなるからなのかもしれないと思う。

昨年は生まれて初めての手術なども経験した。変な言い方だが、楽しかった。
その過程で自分が結構コンペティティヴな人間だということに気が付いた。何かにチャレンジするときに、ほとんど自動的に優れようとするし、何かに勝とうとする自分がいる。他者に対してではない。ほぼ自分の中の何かに対してだ。
そして、これまた変な言い方だが、自分が「助けるに値する人間」であることも、初めて自分で認識した気がする。

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