えこひいき日記

2015年3月20日のえこひいき日記

2015.03.20

地下鉄サリン事件から20年が経った。
私はあの時、ニューヨークにいた。「日本で無差別テロが起きた」「新興宗教が起こしたらしい」というニュースが飛び交い、ニューヨークの地下鉄がいきなり厳戒態勢に入った。その警戒ぶりは、事件が起きた日本より厳しかったのではないかと思う。
「警戒」という目線と姿勢は人を緊張させる。街を歩くにも、ある種の「証明」を強いられる。私はテロリストではない、私は危険人物ではない、私は一般的な市民なのだと、どうしたら一目で他人にわかってもらえるのだろう、と思いながら道を歩く。その一方で、この街にも模倣犯が現れるかもしれない、自分には理解できない理由で見知らぬ人を憎んだり、殺そうとする人が自分の隣を歩いていく可能性がないとは言えない、どうしたら身を守れるんだろう、という緊張感が胸の中で重くなる。
警戒心。不信。
それはもともとは「平和」を望む気持ちだったはずなのに。

20年たった今も、私たちはテロが起こる時代に生きている。テロの脅威は遠ざかるどころか、なんとどんどん身近になっている気がする。

この仕事をしていると、他人を憎む気持ちを持った人に触れることがある。生活の中のテロリズム。
自分の思い通りに事が運ばなかったり、努力が実らなかったり、人から認められなかったり、疲労のあまり周囲が自分に対し無理解に思えたり、自分とは違う部分を持った他者がその「違い」で自分を迫害しているように感じたりす、自分を馬鹿にしているんだと感じたりする気持ちだ。
酷い目に合ったんだな、ということもあれば、被害妄想が大きいこともある。どちらであったとしても、本人はすごく苦しんでいるし、すごく攻めている。誰かのことも自分のことも。見ていてすごく苦しい。

彼らの苦しさを感じるときに、ある躊躇が自分の中に生まれるのを感じることがある。そういう人たちに変化するよう促すことのほうが過酷なんではないか、という思いである。「恨むな」ということは、彼らには「否定された」と感じることであろう。そう感じてもらいたいわけではない。
でも。
このトラブルを恐れることが、結局この事態をそのままにしてしまうことになるのではないか、と思う。たとえ、一瞬自分が彼らの「憎しみ」の対象になるとしても、報われないこと、思い通りにならないことに対して「恨むこと」しかできないままでいなくてもいい可能性があることを、伝えたい、と思う。しんどくて、めんどくさいし、毎回つらいんだけど。

正義が常に勝つわけじゃないし、努力は常に報われるわけじゃない。それでも、全く負けているわけでもない。
でも、それを許せなくなった清潔な精神に持ち主こそが、人を恨んだりする。恨む自分をも憎んだり、「悪」とみなしながら。
本当は、ただ、尊重されて生きたい、という意思のはずなのに。

そういえば、オウムもイスラム国も、そのよりどころを「宗教」である。あるいは「神秘的な能力(超能力や奇跡)」とか。
「超能力」とか「神秘」は、一般的な合理性で測れない部分を埋めるのに便利な概念である。超能力や宗教に限らず、「わからない」「新奇なもの」は、そうであるがゆえに「なんでも入れ」になりやすい。突飛であればあるほど、むしろ奇妙な信憑性を持ってしまったりする。
正義や努力の肯定が合理性や対価主義に基づく信念だとするならば、それが理不尽にも裏切られたときに、その狭間を埋めるマターとして「神秘」や「宗教」は合理主義者にも説得力を持ってくる。何か、自分が未だ知らないだけで、大いなる理由(超・合理?)がこの出来事にはあるはずで、最終的には余人には理解不能なほどの“それ”を理解したり実践している自分に勝利がもたらされるべきなのだと、不条理と不平等に憤る合理主義者は納得しようとする。神秘を「合理的に」、つまり自分の解釈に合わせて利用しようとする。
いわゆる高学歴の人物や経済的にも恵まれた人までが「なぜ(野蛮で、愚かな)テロを?」と言われたりするが、理由はシンプルな気がする。恨みを持続できる人間の辞書に「負けて勝つ」などという勝利の仕方は存在しない。「正義の敵は、悪ではなくて、別の正義」とか、いろんな人がいることとか、自分の知らないことやわからないことが本当にあることとか、価値観の多様性も、本気では理解しにくいと思う。彼らは優劣でモノを考えるのが圧倒的に得意なのだ。

そういう人たちの自己肯定感は優越感であり、常に「負ける恐怖」と隣り合わせだ。自分を安心させるために、彼らは闘う。そしてけして一人ではいられない。何かしていないと気が済まない。仲間にしろ、敵にしろ、自分を肯定するための他人と場を常に求めている。
一番しんどいのは、この恐怖に基づく過活動があらゆる場所を「戦場」にし、憎しみや恐怖を連鎖させていくことだ。ショックや恐怖は本当の人の思考を止めて、行動を狂わせる。つまりは、不安や恐怖を避けるつもりでいて、不安や恐怖の言うことしか聞かない状態になっていく。恐怖に打ち勝つために、恐怖を行使する側に回ろうとしたり、より酷いことをできる人間が強い人間なのだと思いこもうとしたりすらする。それはその人もともと残虐を好む人間だからではない。こんなことですら、他者に劣るのが怖いからだ。他者に「お前は劣っている」と言われるのが怖いからだ。ほとんど反射的に、無意味に、競ってしまうのだ。

そういう私だって、「優れようとする」「よくしようとする」人間だと思う。そうであるかぎり、なろうと思えば、たぶんテロリストになれる。
だから、自分は何がほしい人間なのか、なるべく正確に知っておきたいと思っている。
何もかもほしいわけじゃない。でも、何がほしいのかわかっていないと、持っていないことが自動的に不安になる。持っていない、というだけのことが、与えられていない、虐げられている、不公平、のような錯覚すら起こすことができる。
すぐさまよくなってほしいけれど、1回では世界は変わらない。手ごたえのある破壊に比べれば、日進月歩の改善はまるで手ごたえのない行為かもしれない。そのことに苛立たない高い目的意識を持てたら…と思う。祈るように思う。
本当にほしいなら、手に入るまで続けるしかないんだから。

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