えこひいき日記

2016年5月25日のえこひいき日記

2016.05.25

思えば、数年前からこの「えこひいき日記」を書く頻度が変化した。減った。
その理由は様々だ。そして理由も、数年前と現在とでは違う。          

今の理由。最も大きい理由は、自分の中での「ことば」との距離感が変化したことだと思う。
とはいえ、そのことを自覚してのは最近なのだ。自覚を明確にしたのは、最近、クライアントの記録を書くことをやめた時。20年以上、ずっと毎日、一人のクライアントに対して手書きで1ページ、書いてきた記録書き。それを、やめた。

正直言って、毎日記録を書くのは大変だ。内容をどのように書き記していいのか、ぴったりした言葉が見つからなくて、長い時間考え込むことも珍しくなかった。

そうした作業が自分の「ことば」を鍛えた側面もある。
先日、複数の人たちから「どうして考えたことをすぐにしゃべれるのか」「しゃべりながら考えられるのか」「原稿がないのに言いよどんだりすることが少ないのはなぜか」と問われた。
自分としては計画的にそう行動しているわけではないのだが、そうだとして、「なんでやろ?」と考えてみた時に、日々のレッスンで人と話をすることのほかに、記録を書くときに体験してきた「ことば」との「格闘」があったからかもしれない、と思った。

「ことば」にすることは、私にとって一種の「戦い」だった。
そして「ことば」にしておかないとレッスンでのことが記録できないともに、忘れられないとも思っていた。矛盾するような表現だが、言葉にすることで、私は出来事を覚えておくとともに、そこでの出来事や感情を忘れることを許してきたような気がする。

でも、先日記録を書くことをやめてみて気が付いたのだが、書かなくても、記憶は去らないし、留まらない。
それは最初からそういうものなのか、今までさんざんっぱら書いてきたからこそのことなのかは、わからない。

記録を書くのは大変。レッスンが終わっても多くの時間をそれにとられる。プライベートな自分の時間が無くなる。実家の介護の手伝い等もある現在では、それはきつくなってきた。それも記録書きをやめた理由の一つ。
でも根本的には、「ことば」との付き合い方というか、「ことば」を何のために使うのかを考え直したい、と思ったからかもしれない、と思っている。
これから先も、私にとって「ことばにする」ことは細胞分裂するようなエネルギーを要することであることは変わりがないだろう。でも、同じ苦しむんでも、闘うことは、やめていきたい。

「ことば」にすることにとどまらず、あらゆるクリエーションは、少なからず「戦闘的」な態度で臨まれるところがある。
自分の体験や見聞きしたものの中の、心に引っかかるもの、感じた問題意識、何かに対する批判…そうしたものがクリエーションの原動力になることは少なくない。
例えばこの「えこひいき日記」で取り上げてきた話もそうだったかもしれない。気になったことを書いてきたし、それはこれからもそうだと思う。でも、「えこひいき」というタイトルにも込めたように、自分の中では「私的に関心の強いこと」を書くこと、それがたとえある種の怒りや問題意識をベースにした話題であったとしても、単純に私の怒りの発散では終わっていないように書こう、と思ってきた。それでも、今の時点から振り返ると、どこかで「怒り」に似たエネルギー、「怒り」に似た問題意識を、行動のエンジンにしてきた部分が多い気がする。何かを分かっていない人。わかってくれない人に対して、その何かを分かってもらうための言葉や行動、言葉や行動を生む作業や労作は、どこかで「戦い」チックになる。どうしようもなく。思うようにならなかった口惜しさなんかが残っていると、なおさらに。
でも、その勢いをエンジンに何かをするのは、この先なるべくやめたい、と思うようになった。だって、それだけだと行ける場所に限りがあるんだもん。

そう思うようになったのは、リハビリを経験したことがあるかもしれない。
3年前に、左膝前十字靭帯を断裂させて、手術とリハビリを経験したことは、面白かった。
すごく痛い思いをして、お金とかもいっぱい使って、「おもしろい」って変な表現だと思うのだけれど、でも自分では意図しない事態に遭遇した時に自分はどう反応するのかを見ることが出来て、自分のことがもう少しわかるようになった、その過程が面白かった、というのが偽らざる気持ちだ。だからといってまたどっかの靭帯切るとかは、絶対ごめんだけれど。

リハビリの中で、自分の中にある「口惜しさ」にまつわる感情や行動の存在に気が付いた。それまでだって、「ない」というふうにもまったく思ってはいなかったが、まじまじと顔を突き合わせたのはあの時だった気がする。思うように動かないからだと、痛みと、他者に理解してもらえない様々なことや、悪気もないが配慮もないお門違いにかけられる言葉にへこんでみたり…そうしたことから巻き起こる感情やストレスと、自分の目的意識との間のぐらぐら・ゆらゆらしたものとか、負けん気と弱気、同時にどこかでずっと冷静で自分をあきらめていない自分の存在とか、そういうものと顔を突き合わせてみて、私はどこかで「いつまでも頼りないやつ」と思っていた自分自身が、結構自分のいい「ともだち」になっていたことに気が付いた。
プライドや我慢や意地で「自分」に固執しているから「リハビリ(以前の自分に戻ろうとする)」するんじゃなくて、「情けない自分」に落胆して、私は私に傷ついて終わり、でもなくて、私は経験したことのない出来事に戸惑う私やしんどい私を見放さない私になっていたんだなあ、と妙に感心したりした。
よく、友達に言うことと自分に思うことが違っている人っていない?例えば、あることに悩んで「自分って駄目だなあ」と思っているクライアントがいたとして、その人に「同じ悩みを持つ友人や知人が“自分って駄目だ”と言ったら、“ああ、ダメな人だな”って思います?」と聞くと「いいえ、“そんなことないよ”って言います」という会話があったりする。「どうして、友人に言うことと自分に言うことが違うんでしょう?自分にとって、自分と友人はどう違う存在なの?」と聞くことがある。たいてい、明確な答えは返ってこない。「ほんとうだ、なんででしょう」という会話で終わる。
でも、自分と友人との扱いが違う人は、自分にとって自分が相棒だと思っていない(認識したことがない、考えたことがない)人なんだと思う。
自分なのに、敵みたいに、自分より身分の低いやつ(?)みたいに思っている。
なぜ?自分の思い通りの自分じゃないから?

何人かの方から質問されたのだが、私がリハビリ期に「自分で自分を応援しようと思った」と書いたのは、こういう意味あいである。答えになっているかしら。

リハビリ・ルームの中や仕事を通して、成功するリハビリだけではなく、うまくいかないリハビリの例もたくさん見てきた。もしも、リハビリやその後の体調の変化を負けん気や悔しさだけで挽回しようとしていたら、私は今の状態にはなかったと思う。心身ともに「後遺症」の中にとどまることになっただろう。

そういうことがあったから、ストレートに「大切なものを大切にする」ことを日ごろからのメイン・エンジンにできるように、とはっきり思い始めた気がする。
で、私はどこに行きたいと思っているのか。
なんとなく見えているんだが、これがまたうまく「ことば」で捕まえられない。でも努力してみる。「ことば」にできるように。

ストレートに生きることは、ある意味、自分で自分の退路を断つことだ。こわくもある。
この仕事をしていると、相手の中に弱点や悲しみや痛みを見出さないと他人と共感できない人たちにたくさん会う。そのくせ、「悲しさ」において自分が一番であろうとする。その人たちは、何かを変えられそうになるととりあえず反撃してくる。その様子は痛々しい。だし、反撃されたこっちも痛い。なので、この上傷つけたくもないし自分も傷つきたくないから、こうした人に対してはっきりした意見を言うことはなかなかむつかしかったりする。それで一瞬、やさしそうな沈黙が訪れる。
でも、そのままじゃあ、どうしようもなく不毛なのだ。こうした「傷つけないように」ことは本当のことに「気(が)つけないように」に通じてしまったりもする。駄洒落みたいだけど。本当はどっちが悲しいことなんだろう。
痛みや悲しみのような激しい感情はどうしようもなく心をとらえるが、その支配力に反して、さほど重要なことではなかったりする。感情におぼれやすい人はその感情の「大きさ」「激しさ」がそのまま「重要性」だと思ってしまうようだが、残念なことに、激しいわりに内容はなかったりすることもある。ただ自分の感じた驚きやショックに、ショックを覚えていてそこから抜け出しにくくなっているなっていることが多い。

これから先、そういうことに、怒りや悲しみじゃないエネルギーとエンジンで私は向き合っていけるかな。言葉にしていけるかな。

でもちょっとたのしみ。

カテゴリー

月別アーカイブ