えこひいき日記

2017年10月31日のえこひいき日記

2017.10.31

祖母が他界した。100歳と4か月ちょっとだった。

「息を引き取る」という表現があるが、本当に長い時間…祖母の場合1年間くらいかけて…ゆっくりと呼吸や意識が穏やかに密やかになっていき、最後の吐く息とともに柔らかく空に溶け込むように地上を離れていった感じの最後だった。
(余談だが、「息を引き取る」の「引き取る」という言葉から受ける印象は、なんとなく「吸気」なんだが、実際には「呼気」で終わるような気がする。「誰が」どういうふうに「息を引き取る」と思っているかによっても印象が異なるのかもしれない。最後の息を祖母が「引き取る」と考えると「吸気」っぽいんだが、例えば祖母の「息」を「神様」が「引き取る」ことで虹の橋を渡ることが成立するんだったら、最後の呼吸はやはり「呼気」のような気がする)

祖母の他界を知ったのは、奇しくも出張で彼女の郷里の街を後にしたときだった。台風の影響で2時間遅れで到着した私に危篤の一報が入り、予定を終えた後帰りのリムジンバスの中で祖母の死を知った。
(この出張は愛猫・奏からの「最後の贈り物」を受け取るような意味合いの旅だったのだが、ここで書くとややこしくなるので割愛する。また後日書きます)
そこから先は、葬儀が終わるまで日時の区切りが無くなってしまったような感じだった。お通夜なんかで葬儀場に泊まり込み、30分おきくらいにお線香をともし続けていると、なんだか妙な心身の状態になってくる。実質的な葬儀の準備はみんな葬儀社の方はやってくださるし、葬儀の規模もこじんまりしたものだったから、特に疲れるような作業はないのだが、「常ならぬ」時間の流れ方をしているのは確かだ。
祖母の亡くなり方はとても穏やかで、家族のみんなも時間をかけて覚悟してきたようなところがあったから通夜や葬儀の場でも泣き崩れるような親族は一人もいなかった。「お疲れさまでした」「ありがとうございました」と祖母に声をかけ、その穏やかな顔を見ては「よかったね」と声を掛け合っていた。それでも火葬場でお別れの段になって改めて顔を覗き込みと、みんな滂沱の涙を流すのだ。そしてその次の瞬間には平静に戻る。その感情がフェイクではなくて、全部リアルだから、自分でも疲れたんだと思う。すごくふり幅の広い感情がここにはどうしようもなくある。一言でなんかまとめられない。悲しいだけじゃない。かといって穏やかなだけでもない。記憶のダイジェスト版が一気に押し寄せてからだがそれに反応する。

祖母の死は「老衰」であった。病死ではなく、事故でもなく、老いて衰え、生命を生き切って死んだ。それは花が自然に枯れていくように、美しいものであった。
例えば思うように体が動かなくなっていくこと、記憶があいまいになっていくこと、自力で嚥下が困難になり流動食を食べるようになること、寝たきりになり、おむつや尿カテーテルを使うようになることを、嘆かわしく思ったりみじめに思う感情もあるだろう。確かに積極的にしたいことでも、受け入れたいことでもない。でも祖母を見ていて思ったのは、自分に訪れたそれらのことに抗わず受け止めることが、こんなにも尊厳ある態度なのか、ということだった。最初はそれに尊厳を感じることにも、「ひょっとしたら介護する立場の人間にとって都合がいいからそう思いたいだけなのではないか」と自らを疑ってもいた。
でも、祖母の顔や、死後も柔らかいままの指(葬儀社の人によると、苦しんで亡くなった方は筋肉に硬直が残り、支度をするのが大変だったりするという。胸の上で指を組み合わせるときに、容易に指が動くのを見て「ああ、本当に穏やかに逝かれたのでしょうね」とのことだった)を見ていて、何があってもあるがままに生き切ることは、美しいことなのだと、改めて思った。

最後の貴重な学びを与えてくれて、ありがとう。おばあちゃん。
私も最後まで私の生を全うできますように。

もう少ししたら、彼女が生前に行きたがっていた彼女の郷里にお骨をもって行ってくる予定だ。祖母と仲の良かった年の離れた妹さん(と言っても90歳間近!)がいらっしゃる。楽しんでくれるといいな。

カテゴリー

月別アーカイブ