えこひいき日記
2017年12月28日のえこひいき日記
2017.12.28
2014年に左膝の手術をし、スポーツをする人並みのリハビリを受けた。リハビリで落ちた筋肉を増強しているうちに自分の中にある「マッチョさ」みたいなものが前に出てくるのを感じた。「負けん気」というか「怒りに似た原動力」というか。
普段、「からだの使い方」などというものを教える仕事をしていて、筋肉の「強さ」だけに頼らない身体運用の効率をメインに身体を見ていると、こうした「マッチョさ」はあまり私の中からは出てこない、いや、出てくる機会がなかったのだと思う。
でも筋肉を使っていると、違うものが自分の中から出てくる。
不思議な感覚だった。
先日、ヨガのクラスを受けているときに「今日はなんだか身体の動きが思うようにいかないな」と感じた。でも大きな違和感ではなかったのであまり気にしないでいた。
クラス・スタイルのヨガでは、あまり個人的な指導を受ける機会が少ない。「無理をしないように」「今日の体調に合わせて受けてください」という言葉はもらうが、具体的にどうするかは個人に任されることが多い。だから「思うように動かない」状況においても、それなりに動くつもりでいた。
だが、その日は先生がそばに来て、伸びにくい筋肉にアジャストが入った。アジャスト自体は的確だったと思う。ただ、無意識の「かばい癖」によってあまり使っていなかった部位に動きが入り、左半身の表層がしびれてしまった。血行の変化や筋肉に入った刺激がそれを引き起こしたのだろう。クラスが終わって帰るときには左足の感覚があまりなく、段差などは「何もない空間」に足を差し出すようでとても怖かった。
その時私が反射的に感じたのは「怒り」のようなものだった。「腹立たしさ」。4年もたっているのに、努力だってしたのに、私はまだあの怪我を終わらせられていない。そういう「腹立たしさ」「悔しさ」。
「腹立たしさ」の後に、「あれ、この感情には覚えがあるぞ」と思った。リハビリの最中に、思うように動かない左脚を動かせるようになるために使った感情だ。筋肉がついてくるほどに課題が増えて、その時に増していったマッチョな感情。
あの時は、そういう感情も必要(有用)だと思っていた。それによって「痛み」はなくても「つらさ」や「しんどさ」「くやしさ」を伴うリハビリ作業を受け入れられた。あの時の感覚は、今思い返せば「脚が動くようになりたい」でもあったが「こんなケガに負けない」「はやくこんな時間を終わらせたい」という気持ちだったと思う。
4年が流れて、私はまた似た感情の中にいる。思うように動いてくれない身体。それに対するちょっとしたパニック。パニックから引き起こされる感情。でも、私は「思うように動いてくれない身体」を「終わらせたい」のだろうか。違う気がした。「終わらせる」のではない。「始めたい」のだ。似たようなことかもしれないけれど、全然違う。
今私が私にできることって、何だろう。
翌日は、冬至恒例の三輪山登拝の日だった。無謀っぽいかもしれないが、私の中には「中止」という選択肢は全くなかった。この脚で何ができるのか、感じられるのかをやってみようと思った。
とはいえ、登拝は「いつも通り」というわけにはいかなかった。左脚の感覚も動きも心もとなく、登りでは何度も何度も立ち止まって休み、いつもの倍くらい時間がかかったのではないかと思う。後から来た人に何組も抜かされた。それに対して「悔しい」という感情がわかなかったわけではない。でも、だから足を速めよう、という考えよりも、「どう動くのか」の方に集中した。
街中とは違い、自然の山道の中では足元はランダムだ。つまり均一な段差や傾斜ではないということ。その「不均一」な地面に対して負荷が「均一」になるように足を運ぶにはどうしたらよいか。身体の感覚や反応に耳を澄ます。そうすると、自分が普段見落としている癖が見えてくる。動作を可能な限り意識化するのですごく脳が疲れるんだけど、それらをできるだけ感じて是正しながら山を登る。
そうしているうちに、頂上が近づくころには「今の自分にできる動き」が見えてきた。しびれ感はなくなりはしないものの自分の動きを邪魔するものではなくなり、下山するときは軽快な感じすらした。
いつもの倍くらいかけて登った経験は、意外な発見もくれた。いつもなら、登りでかなり汗をかき、帰り道では汗で身体が冷えるので帰宅前にどこかで着替える必要があった。でも、ゆっくりペースで登ると汗をあまりかかないので身体が冷えず、全体として快適で体力を温存できた。疲れが残らないのだ。
これまでの登りのスピード感を「軽快なペース」だと思っていたが、振り返れば「余計な競争心」が混ざっていたかもしれない。自分自身に対する「競争心」。しんどいと感じない限り歩みを止めず登り続けることが「軽快」なんだと思っていた。
でも、上り下りを通して汗をかかない経験をしてみると、ちょっと違う感想を持つことになる。私はどこかで歩みを止めることを「弱さ」のように思っていなかっただろうか。なぜ、私は私に対して「強さ」を示さねばならなかったんだろう。私は私の何を証明して見せたかったんだろう。そのことの方が私の「弱さ」「自己不信」を示す行為だったのかもしれない。
その後3日間ほどは「普通なこと」をしても左半身に筋肉痛が起こった。無意識のかばい癖にテコ入れをし続けたからである。こういうのってパズルみたいなものだから、いろんな箇所が次々と反応する。時には以前のかばい癖に戻ってしまうこともある。それらを見つけては是正。多分これからしばらく続くだろう。
それからまた数日して、108回太陽礼拝というイベントに参加する機会を得た。このイベントは左脚がしびれてしまう前に申し込んだものだったが、やはり「不参加」ということは思わなかった。
思えば、太陽礼拝はヨガを習い始めたばかりの私が「苦手」と思っていた動きの一つである。「きつい」と感じていた。
今はそのころのように「きつい」とは感じなくなったが、それでも「108回」は果てしない回数のような気がしたし、それを行うのにどのくらい時間がかかるのかしら(果てしないくらい膨大な気がする)、できる気がしない、と思っていた。そう思っているのに、「やろう」とも思っているのだから、ややこしいよね。
実際にやってみると、108回の太陽礼拝にかかった時間は1時間半くらいだった。驚くことに、気持ちよかった。汗はかくし心拍も上がるが、案外乱れない。終わった後も、身体のどこも痛くなかった。
とはいえ、108回の太陽礼拝は、自分一人でできるものではないとも思った。イベントを導いてくれる先生がいて、周りに参加者のみんながいてくれて、できるのだ。自分一人で行っていたらたぶん50回くらいでやめている。だって、それなりにしんどいもん。正確に表現するならば、一人で行っていると起こってきた「しんどさ」のほうに意識が集中して「しんどさ以外」のことに意識が向けられなくなるんだと思うの。先生を含め、参加者の皆さんの存在に感謝である。
しんどい、と感じた時に自分にできることは「再点検」「是正」だ。それまで行ってきたやり方やペースではなく、何かを見直す、変えてみる機会に立っているということだ。108太陽礼拝の場合、言葉にするとシンプルでありきたりかもしれないが、自分の呼吸に動きを合わせ、動きに気持ちを合わす。すると、できる。「心口意の一致」を呼吸をコンダクターにして行ってみる感じ、というか。すると今の自分にとって最小限の努力で最大限動けるルートが見えてくる。ルートは時間の経過によってちょっとづつ変化したり、見いだされなおしたりする。そのルートをたどれるのが楽しい。そんなことを思っているうちに108回は終わっていた。
終わってみれば脱落者は一人もおらず、ホットな中にも静けさがあり、全身を使ったお祈りをしたような心地が広がっていた。おもしろーい。登拝と似ている。登拝も、やり方によっては普通の「登山」になれるし、太陽礼拝もひたすらエクササイズライクすることもできるのだが、それとは違うやり方もできる。それができることがうれしい。
今すぐに、いきなりは無理かもしれないが、できることなら私は自分自身に対する「競争」を終わらせたく思っている。何がそれなのかよくわかっていないくせに「自分に負けたくない」と思っていて、自分を疑って、テストして、その力で前に進むことをやめたいと思っている。
違う力で前に進みたい。
50歳になって、そんなことを思う。やれやれだぜ。
今年は公私ともに…特に私の方でいろいろあった、結構きつい年だった。でも、よかった。「何が?」って聞かれると明確に言葉にできないところも多いのだが、きつさにノックアウトされずにまだ立っていられていることいかな。きつかったけど、きついだけじゃなかったこと。やはり感謝したい気持ちがある。
今年最後の更新になると思います。
皆様ありがとうございました。
来る年も善き一年になりますように。