えこひいき日記

2018年2月18日のえこひいき日記

2018.02.18

私は羽生結弦選手のスケートを見るのが「こわい」。楽しみでもあるし、応援もしているのだが、「こわい」。

彼のスケートを始めてみたのは、彼が確かシニアデビューした時で、テレビ放送されるような大きな大会を放送で見ていた時だったと思う。「うわー、日本にも“王子様”を違和感なく演じられそうな人がいるんだー。今の若い子ってスタイルいいなー」というのが最初の印象だった。小顔で、上品な顔立ち。長くてほっそりした手足。すごーい!でも動き出したのを見て「うわっ、この人、見たことないくらい負けん気が強い!」と思った。どんな動きの何を見てそんなことを思ったのかは具体的には記憶にない。
でもそれ以降、何度見ても「とんでもない負けん気」の印象は変わらない。優しげな容姿、力んでいるわけでもない身体のどこにこれほどの負けん気を収納して自分をまとめているんだろう…と思うくらいの、戦闘力。普通なら収まりきらなくて壊れてしまう、と思うくらいの。

だから彼にはどうしても激しくて追い込むようなナンバーが似合ってしまうと感じる。それもメラメラ系の赤い炎の激しさではなく、実は恐ろしく高温であるにもかかわらず手をかざしても一瞬熱を感じないような透き通った炎。恐ろしくなさそうだから近づきやすそうに思えて、実は遠い。
今回のオリンピックも、彼の滑走を見るときだけすごく緊張してみている自分に気が付いた。羽生選手が昨年秋に怪我をして以来の大舞台であり、怪我して以降の様子もほとんど報道されていなかったゆえの緊張感もあるが、それが理由じゃない。彼にはもともと緊張感が似合うし、味方にできる。あの張り詰めた感じが輝きにすらなる。
だから「こわい」のにみてしまう。この「こわさ」は他者を遠ざける要因ではなく、むしろ引き付ける魅力になっているのではなかろうか。

「こわさ」とは「わからなさ」でもある。身近なものではなく、遠いもの。それゆえにカジュアルな関係性を結びにくいのだが、反面、すごい集中・求心の力で人を引き付けるところがある。

そういえば、フリーの「SEIMEI」は陰陽師というマジカルな存在がテーマ。“鬼”というものと戦う人間なのだが、“鬼”のことがわからないと「ふつうの人」がかなわない“鬼”に対峙することができないという意味では、「ふつう」ではない人、人間よりも“鬼”に近い存在である。奇しくも、今回彼のおかれた状況と彼の気質に合ったナンバーだった気がする。
彼にはよく「異次元の強さ」とか「絶対王者」というような、「ふつう」の次元から距離のあることを示唆する言葉が使われるが、それは「卓越したスケート技術の持ち主」という意味だけではなく、人間としての「こわさ」の魅力ゆえではないかと思う。

「こわい」といえば、仕事をしていて、激しく身体を使う人たちからの「むちゃぶり」はいろいろ受けてきた。
膝の手術を勧められたが数週間後に本番があるので切りたくないというダンサー、圧迫骨折があるが数日後に海外で試合があるというスポーツ選手、コンクール前のストレスで足首が動かなくなったダンサー、耳が聞こえにくいのだが本番のスケジュールを変えられない演奏家…そういうオファー、「こわい」。「なんでそういうタイミングで、そういう無茶なこと言うんだー」と言いつつも、そうした人たちの力になれたことは私にとって誇りだった。

でも、ある時から無邪気に結果を「いい」とは思えなくなった。
「むちゃぶり」にこたえられることは、指導者としてチャレンジングな取り組みだったし、できた内容や結果はスキルとして誇れるものかもしれない。
でも、これってかえって自分の身体と、ひいては自分自身と真に向き合うことを邪魔していないか?身体や自分を大事にしなくてもこの手で何とかなる、動けさえすればいい、という認識や「からだの使い方」を助長することにならないか?アレクサンダー・テクニックは本質的に教育。治療じゃない。本来身体はそれなりの時間をかけて育んで「そのひと」と一体のものになるものだ。
いや、自分の身体や自分と向き合わなくてはならない、というのすら大きなお世話かもしれない。そういうことがどうしようもなく苦手だし、たぶん、そこから逃げるために生きている人にすら会うからだ。
最終的には、その人の身体はその人のものだ。私のものじゃない。だから私の考えを相手に押し付けることはできない。
それに幸い、「痛くなければ、はい、終わり」という人たちばかりというわけではない。そこから深く自分に向き合ってくれる人たちもたくさんいる。

だから私の悩みは、相手の問題ではなく、私にできることを私がどう用いるのか、という、「私のからだの使い方」の問題でもあるかもしれない。今も迷い続けている。
できるからって、やればいいものではない。相手が喜んでくれるのはうれしいけれど、その反応を得るために手段に無意識・無条件・無感覚にはなりたくない。
単に私のエゴが強いのかな。
強く何かに集中しようとすると行き過ぎを警戒してバランスを取ろうとしたり。でもバランスが取れすぎると動きがなくなるので、崩したり、偏ってとがらせたりしたくなる。またその必要を感じたりもする。
表現するフィールドの人たちと仕事をすると、安定感や平安がないと続けられない一方で、完璧な静寂のままでは表出できない側面も感じて、いろいろ迷う。

「こわい」といえば、怪我の回復具合がどうなのかしら、という人がどえらいことをしているところを見ると、はらはらする。「心配」「不安」という「こわさ」。それは魅力の「こわさ」とは別の意味の、「こわさ」。

でもその実、「未知」で「強くひとの興味を誘う」という意味では共通しているかもしれない。

はらはらの「こわさ」、「恐れ」に負けそうになると、その人のしていることが肯定しきれなくなる。「こわい」から「よくないこと」をしているように感じたり、行動が成功することを疑うようにジャッジが傾く。
意識が「怪我」の方を主体にしてしまって、その人が今「していること」が見えなくなりそうになる。「からだと向き合う」って「痛みと向き合う」ことでも「怪我と向き合う」ってことでもないんだよね。でもきっかけや当面のテーマがそうなりがち。

とらわれやすい「こわさ(恐れ)」から逃れようとするとき、使いがちなのが「無視する」という集中の仕方。向き合わないで、無視するの。その感覚に支配されているにもかかわらず、大したことのないことのように扱うの。一見「不屈の精神で頑張っている」ように見えることもある。でもこれをやると、結局問題は深くなる。解決とは程遠い、かりそめの力の出し方。
あるいは「これじゃ無理」と行動自体をやめてしまうこと。怪我をしている場合は、治療や回復に専念するための「判断」「英断」とも思える。でも「回復への選択」というよりも「恥をかくこと」を恐れてその選択をする人もいる。何かを見ないようにしているという意味では「無視」とも重なる。

オリンピックの舞台でショートを滑る羽生結弦選手の姿には、見る前に想像していた怪我由来の「こわさ」はなくて、ただそこに集中している姿があった。フリーを滑る様子には、きっと怪我等のコンディションの影響だろうことはみられたが、それが見えたからといって「こわい」と感じるものはなく、そんなことより、ただそこにもとてつもない集中があるのを感じた。
すべてを見て、すべて感じて、自分が何をするのか決める。集中する。逃げるために使う集中とは全く違う力の使い方。
それができる羽生結弦選手は「こわいものなし」にみえる。「こわいものなし」はやっぱり「こわい」。

「こわい」って、怖いけど、魅力的だ。わからないから、どうなるか知りたくなる。やってみたくなる。
そう考えると「こわさ」は時に「道標」でもあり、「可能性」でもある。
恐れて身を縮こまらせ、自分を邪魔するものにもなるが、私を助けてくれているのかもしれない。

・・・ていうことを書いていたら、自宅玄関に飾っていた「魔除け」の鏡が落下した!こわいよー
(ちょうど旧暦正月の終わりでもあったので、「魔除け」は新しいのに架け替えました。こわいよー)

カテゴリー

月別アーカイブ