えこひいき日記

2018年4月23日のえこひいき日記

2018.04.23

家に帰ると猫がいる。猫たちは私を出迎えてくれて、リビングでくつろいでいると身を寄せてくる。彼らをなでなですることは私の喜びだし、彼らもなでなでされることを喜んでくれる。
その関係が「あたりまえ」に成立していることは、とても幸福なことだ。

関係性が違えば、「なでなで」が虐待やハラスメントになることもある。
巷を騒がせているセクシャルハラスメント問題や、「#Me too」のことを言っているのではない。いや、周り巡ってその話にもなることだと思っているが、直接的には、昨日参加した「夜の図書館カフェDEトーク」で考えたことである。
1時間ほどの短い時間であったが、そこで参加者の脳裏に駆け巡ったものは膨大だったと想像する。
私自身、5年前に愛玩動物管理飼養士のスクーリングの際に教わった動物愛護法のことや、動物愛護の歴史を考えることは実は動物虐待の歴史を考えることでもあること、動物への人間の態度は少なからず人間同士の福祉のセンスに関係していること、鯉やネズミやカエルの解剖をしたこと、海外でクジラやイルカの問題に関して見知らぬ人から喧嘩を吹っ掛けられた思い出、私という人間と関わったがために少なからず人生ならぬ猫生や犬生や魚生が変わったであろう動物たちのこと、関わるたびに感じる迷いとそれぞれに下してきた決断等々が、なんとも言えない気分とともに駆け巡った。
こういう話題を動物園という場所で共有できたことにとても感謝している。企画してくださった京都市動物園、講師の伊勢田哲治氏、参加者の皆さんの熱意と理性に心から感謝する。

昨晩のテーマは「動物をかわいがるとは何をすることなのか」。

京都市動物園のHPやSNSでは「動物をかわいがるとはどういうことなのか」というタイトルになっているが、講師が当日こちらに書き替えていた。こちらの方が具体的。
考えてみるシチュエーションとして挙げられたのは「野良猫に餌をあげることは“かわいがる”ことか」「ふれあい動物園などで動物をなでること」「食用の豚を大切に育てて出荷すること」である。てごわいでしょ。もう気持ちがざわざわしてくる人もいるかもしれない。だからこそ、考えてみるに値する大切なテーマだともいえる。

「かわいがる」というのは、とてもかわいらしい日本語だ。ほほえましい。イメージとして、あたたかい感じがする。
だが一方で、某業界用語では「かわいがり」というのは「いじめ」という暴力行為を意味することだったりする。新入部員とか、部下という立場の人間に対し、先輩や指導者など立場が上の人間が「鍛えてあげている」「教えてやっている」「お前のためだ」という言葉のもとに行うハラスメントだ。

内容的には似て非なることが、どうして同じ「かわいがる」で表現されるのか。
それは本質的には全然違うことにもかかわらず、ものすごくは違わない行動で行われることにあるかもしれない。両者の違いは、最初から明確な場合もあるが、例えば「エスカレート」とか「いつの間にかずれていった」というような、量的あるいは質的な変化によって生じていることも多いような気がする。「かわいがるもの」と「かわいがられるもの」の関係や意思疎通の具合によってもこの境界線や溝の深さと幅は刻々と変わる気がする。

人間同士のハラスメントの場合、現在の定義では「相手がそれを嫌だと思ったら、ハラスメントなのだ」とされている。
だから、たとえ社会的には上下関係があろうとも、人間として「あたりまえ」の関係を築ける間柄なら、相手が嫌がっているとわかった時点で「ごめんなさい」を表現すれば改善できることが多いように思う。
しかしながら人間の場合ややこしいのは、自分のしたことに「訂正」を行い、行動を変化させることを、「学び」や「グレードアップ」ではなく、「恥」と「プライド」の問題にすり変えて感じてしまう思考習慣を持つ人が意外に多いことかもしれない。加害者側、被害者側問わず。
「ごめんなさい」を言うことが「相手にへりくだる」とか「自分は悪者だと決めつけられる(相手というより、自分自身に)」と感じてしまう人間が意外に多く、「あたりまえ」のコミュニケーションを拒絶される場合が多いことだ。特に加害者とされる立場の人間がこういう態度をとった場合、事態は感情的にも泥沼化する。
今、ニュースになっていることはこんな感じのことのような気がする。

でも人間と動物のような間柄の場合、言葉を介した意思の伝達や確認ができない。自分の行為がハラスメントにあたるか否かはどのように判断すればいいのか。
まあ、ざっくりだが、相手(動物)の様子を見て判断することだろう。
逃げようとしたり、噛みつこうとしたり、唸り声をあげたりしていたら、あるいは妙に無抵抗でぐったりしていたら、「嫌なんだな」と察することは言葉を共有できなくてもそんなにむつかしいことではない。

だがややこしいことはここにもある。人間のハラスメントでもそうだが、そこにどちらかの強い「欲望」が絡む場合かもしれない。自分の欲望や欲求を満たすことに必死になると、相手の表現が見えなくなるし、それに対する判断力も落ちる。だから事態がまずくなってきていることや、相手の拒絶表現にびっくりするくらい「気がつかない」でいることができたりする。
人間も動物も、「欲望」に対して「必死」というテンションが強い状態だと、あんまり判断や行動が適切ではなくなる。不適切さとは、例えば行動が乱暴になったり判断が極端だったり短絡的だったりすることなのだが、当人は必死過ぎて「乱暴」を働いている意識はないことがほとんどだ。なので「乱暴だ」と指摘されたり、激しいアクションで相手の行動を遮ろうとしたり反撃すると、それに対する「驚き」からまた行動を激化させたり、ディフェンスした行動の方を「暴力」ととられることもある(主に人間)。

「必死」という状態から脱するまでコミュニケーションや相互理解は成立しにくいだろう。脱するまで、状況が変わるまで、コミュニケーションの成立は待つしかない。
待つ以外に、もし何かできることがあるとすれば、脱する方向に誘導する働きかけをすることだろうか。やんわりね。自分の仕事でも思うけど、やりすぎても、やらなさ過ぎてもだめなんだよね。量的な判断ができないなら、「待つ」ことに徹する方が良策かもしれない。でも、関心を失わずに。「待つ」は「何もしないこと」ではないから。

「幸福」と「欲望」、「愛情」「理性」「かわいがる」「癒し」…絡み合いながらもより分けなくてはならない事柄は多い。あからさまな憎しみや悪意だけがハラスメントを生むわけではない。むしろ「よかれ」が「暴力」にシフトしうると知るから、心がざわつき、意味もなく「あ゛~」とか叫びたくなる。
でも叫んでいるだけでは心の中も世の中もよくならないし、かといって結論を急ぐと争いも増える。

今の私のできることは、目の前のもふもふとの時間を寿ぎながら、「世界」への関心を失わないこと、かと思う。目の前のもふもふさえよければ「世界」がどうでもいいとは思えない。なるべくwin-winを狙いたい。
最近つくづく思うのだが、考え続けるって、体力要る。いろんなエネルギーを充実させてバランスとらないと、本当に「考える」ってできない。「感じる」もそうかもしれない。そういうふうにたどってみると、たとえ今もどかしい問題の解決にたどり着けていなくても、私にできることは皆無ではないという気もするのだ。

知ることを、続けてみようと思う。知ると辛くなることもあるけど、そこで視線を止めずに大事なことに焦点を合わせていきたい。

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