えこひいき日記

2019年1月30日のえこひいき日記

2019.01.30

2年ほど前から始めた講座『禍→福ワーク』と『疲労と活力』。
ワークショップでお集まりいただくほかに、昨年からは個人でお申込みいただけるようにもした。おかげさまで予想より多くの方に興味を持っていただき、リピート受講してくれる人も増えた。

そうした中で思ったことがある。改めて「からだを使う」とはどういうことなんだろう、というお話。

私はアレクサンダー・テクニックというものを軸に「からだの使い方」を教える仕事をしてきた。この「からだ」とは、主に筋骨格的な身体のことであり、解剖学的な知識や構造的な誤解を解くことを中心に、疲れにくい動き方やその人の望む動作がしやすくなるように指導をしてきた。

ところで身体は、物理的身体のためだけに用いられるものではないし、作用するものでもない。
だから癖や習慣、職業や特技を行う身体を考えるときに、「からだ」は物理でありつつもそれだけではなく、その人の心理状態や精神、おかれている環境が物理的に表れたもの、とも考えている。
私が本分として行っている「からだの使い方」への視点はこれに基づくものであり、用いる手法やエクササイズはその時々に必要と感じた手段に過ぎない。
だから「こうすることがアレクサンダー・テクニックなんですね」とか「こうしておけばいいんですね」「ちゃっちゃと私の望みをかなえてください」というようなかたちでしか「からだ」と向き合うチャンネルを開きたくない人に対しては、ずいぶん失望させてきたと思う。

とはいえ、物理的な身体が「わたし」という存在に与える影響は十分大きい。物理であって物理にとどまらない。
構造を知り、働きを知り、様々なアイデアや知識を取り入れて身体状況を快適にすることは「わたし」にとって善なる行為と言って過言ではないだろう。身体的に健康であること、落ち着いていること、痛みがなく動作ができることは、幸福の大きな要素だ。
単に「同時進行で多くのことができる」ことよりも「今、自分は何をどう行っているのか」という身体と認知の結びつきの精密さが、いわゆる認知症の予防になることもわかってきているし、よく手入れされた身体を持つということが精神的にもその人を肯定することは、昨今のフィットネスの在り方をみてもよくわかることだと思う。

そうしたことから「身体」というものに固執したり、身体そのものではないが、身体感覚の中の「快感」を拡大させることを欲してやまない人もいる。
そうした身体の所有と快感の持続を「よいこと」「幸福」と呼ぶ人もいる。
ただ、その中には「依存」も含まれていて、その感覚そのものが幸福なのではなく、ある苦痛から逃げ場所として機能していることが多い。
加えて現代的な生活の働き方における感覚的報酬も、その働き方で得たストレスの解消方法のどちらも、こうした「依存的快感」に依存している側面は否めない。
この構造的な依存からの脱却は、薬物依存からの脱却に似てけして平坦な道のりではない。だが、たとえ完全に依存を絶てなくても、依存を抑えることには大きな意味がある。

『疲労と活力』や『禍→福ワーク』では、上記のような話もしながらワークを進めてきた。「かりそめの幸福感」でかえってさらなる疲労につながらないよう、メカニズムの説明や、エクササイズの紹介、食事のアドバイスもする。すべて実質的でフィジカルなことが基軸である。

でもワークを重ねるうちに、「かりそめ」に対して「ほんもの」とは何か、を考えざるを得なくなってきた。
というか、皆さん、その考え方を考えたいんだな、と感じるようになった。
アレクサンダー用語でいるところのinhibition(「抑制」。つい習慣的、無意識的にやってしまう行動や思考を意図的に“やらない”ことをしてみること)は、習慣的で無意識的な「依存」からの脱却に役立つが、それはまだスタートラインに立つための地ならし。
本番はここから。
その向こう側にあるもの。
いわば「QOL」の領域。

ワークを個人ベースのものに切り替えて善かったと思えることの一つは、この領域のお話をより話せるようになったことかと思う。
(一部の人にとっては「こわくて」一生逃げて終わりたい話かもしれないが)

「QOL」をどう考えるかは、私自身、動物のことを学ぶようになって考えさせられた部分が大きい。
ちょっと長くなるので、この話はまた後日。

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