えこひいき日記

2019年7月7日のえこひいき日記

2019.07.04

先日、実家の母から「犬がご飯を食べてくれない。寝てばかりいて、反応もしない。ときおりキャインと鳴く。どういうことだろう」と連絡があった。
犬はまる1日以上食べなかった後、ご飯を食べてくれたが、だからめでたし、というわけにはいかない。
病院に行ってみることにした。歩けるかしら、と心配したが、いつもよりゆっくり目の足取りだったものの30分ほどかけて病院まで歩いて行けた。

結果からいうと、彼(犬)の症状は消化不良だったらしい。血液検査異常なし。怪我のような外傷もなし。
ただ、レントゲンの結果、腸にガスがたまっていることが分かった。これが食欲不振と「キャイン」と鳴く理由だったらしい。獣医師によると、柴犬は知覚が敏感らしく、怪我でなくても不快感かこのように鳴くことがあるらしい。
帰宅した彼(犬)は少しご飯を食べた後、半日眠り続けた。この通院から数日たち、今はもうすっかり元気になってきている。
とりあえず、処方薬の服用が終わったら食べてもらおうと思う乳酸菌のサプリなどを差し入れした。

彼(犬)も間もなく12歳。一般的に言われるところの、柴犬の平均寿命の年齢に達した。
「老化」
ということなのだろう。
人間とは異なる彼(犬)の「老化」のかたち。でもふいに、かたちになる。
かたちになって、人間はそれに気がつく。
気がついて、びっくりする。
こういうことにびっくりしている自分に、自分でもちょっとびっくりする。気がつきたがっていない自分にも気づく。
かたちが変わっていなければ、何も変わっていないんだと思いたがっている自分がいるんだなあ。

彼(犬)がぐったりしていた時、母は「このこ(犬)がいなくなったらどうしよう、ひとりぼっちになってしまう」と言った。
後で聞いたら、想像の中でお葬式や埋葬のことまで考えたと言う。
そんな、一足飛びに、大げさな…と言いながらも、そうだよね、とも思う。
人間の子供が何人かいても、やはり彼(犬)がいなくなってしまうと母は「ひとりぼっち」なのだ。そのことを、寂しいと思うよりも、少しうれしいと思う自分がいた。
母に悲しい思いをしてほしいわけではない。ただ母がそんなふうにまで彼(犬)を思ってくれていることがうれしかった。
多分、人間を素直にそんな気持ちにさせてくれるのは、パートナー動物なのかもしれない。
人間同士では、ときに関係性(序列、損得、制度、期待、過去記憶に基づく感情等々)が重なりすぎて感じにくくなるもの。シンプルで単純な、装飾や理由付けのない「愛」。

私は子供のころ、身体が弱かった。だから普通のことを普通にしようとすると、しんどくなり、つらかった。
小学校には週一回点滴を打ちながら通っていた。あんまり長生きできないかもともいわれたが、「死」はそんなに怖くなかった。ただ普通の人間より早く死ぬなら、親に申し訳ないな、と思っていたくらいで。
具合が悪くなると、介抱された。介抱されて動けるようになると、また普通のことを普通にしなくてはならないことが、苦しくて、つらかったが、そういうことは誰にも言えないのも苦しかった。いっそ、誰にも見つからずに倒れて、そのまま死んだりしたら、もう苦しくないのに、と思ったりもした。
とはいえ、積極的に、真剣に、「死にたい」と思っていたわけではない。
ただ、生きることを続けたままで、苦を取り除く方法を思いつけなかったのだ。
当時は子供すぎて、時間や成長や学習が自分にどんな変化や可能性をもたらすかなんて想像も期待もできなかった。ただ「苦」に困っていた。

「死」は、自分の少ないボキャブラリー中で、「苦」を取り除けるものではないかと淡く期待を抱けた「方法(word)」に過ぎない。
「死」を意識した時に、恐れているのは「死」よりも「苦」であることは今も変わっていないと思う。
ただ、今の私は以前よりは「苦」を変化させる「方法(wordではなく方法)」が増えた。だから「苦」の解消をいきなり「死」にだけ期待することはない。
生きたままでやれることはいろいろあるし、死ぬまでの時間をなるべく幸福に生きる方法を考えたほうがいいと思っている。死なないことは、努力や学習で叶うことではないけれど、なるべく幸福に生きることは、努力や学習で叶う。それに死なないことが幸福とはやっぱり思えない。

肉体をもって生きていられる時間には限りがある。
この時間は一種の冒険なのかもしれない。
ロールプレイング・ゲームと同じで、いろんな問題や困難や試練が立ちはだかることもある。
私は試練や困難に燃えて喜ぶタイプではないので、なるべく平穏にお願いしたいのだが、なるべく楽しくやっていきたいと思う。

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