えこひいき日記

2019年10月5日のえこひいき日記

2019.10.05

10月になってもなかなかの暑い日が続いている。それでいて昼間の光は秋の透明感。一層光線が刺さるようだ。

先日「むつかしい」という言葉を巡ってクライアントさんと会話したことがあった。
治療師をされているその方は、その患者さんに合う、効果的だろうと考えて紹介した方法を、その患者さんから「むつかしい」と言われたことに当惑しておられた。
「そんなに“むつかしい”ことは言っていないのに」と。
治療師さんのおっしゃる、言っていない「むつかしい」は、「技術や手順がむつかしい」ことを言っていない、という意味だ。
だが、患者さんは「技術的にむつかしい」ことを「むつかしい」と言っているわけではない。

同じ言葉だけれども、意味が違う。
だからそれが見えていないと、かみ合わなさに当惑してしまうのだ。

こうした会話は私にも覚えがある。というより、年中クライアントさんから言われている。
クライアントさんや学生さんから言われる「むつかしい」の意味は様々だ。
あえてざっくりした共通点を上げるとするならば
「むつかしい」は、必ずしも「拒絶」ではないこと、
「戸惑い」の表現であること、
戸惑い中なので、今投げかけられた提案(エクササイズとか、アドバイスとか)をどのように受け止めるかを決まるまで「時間が欲しい(すぐに回答や成果を要求しないでほしい)」
というエクスキューズ
であることだろうか。
ポジティブに翻訳するならば「今、絶賛考え中、消化中なので、自分の中でまとまるまでちょっとまってください。早くとか、プレッシャーかけないでね♡」みたいな。

自分の考え方やらからだの使い方を変えることは、「むつかしい」。
変えた方がよくなるとわかっていても、「むつかしい」。
変化の波は内側からの欲求であることがほとんどだ。そうであるにもかかわらず、自分の内なる波に乗ることさえもときに「むつかしい」。

こういう「むつかしい」は、もどかしい。
もどかしさを「停滞」「嫌な気分」と感じ、さらに「停滞している自分は能力が低い」かのように感じて、がっかり感からそこでストップしてこれがしまう人もいる。あるいは焦る人も。
「(すぐに)うまくいかない」ことは「自分が本気で欲していることではないのではないか」と思おうとする人もいる。

でも「むつかしい」は、わるいことではない。ときに「おもしろい」だったりもする。
例えば、俗にいう「いい試合」になっているスポーツ・マッチは、「簡単に勝敗が見えない試合」のことを言ったりする。勝敗は単なる結果で、その結果も待ち遠しい一方で、プロセスこそが見どころ、という時間。というか、心理状態。こういう「いい試合」を見ているときのスポーツ・ファンは、早く決着がつくことよりも選手たちの素晴らしい力の応酬が繰り広げられ続けることに心を躍らせることだろう。
「いいゲーム(ソフト)」なんかも、適度に困らせてもらえるからこその「よさ」、「楽しさ」ではないだろうか。
「この先は、どうなるんだろう?」と思わせてくれるドラマや小説、舞台や、タレントさんの活躍なんかも。

もちろん、どんなに素敵な展開も、最後には何らかの決着にたどり着きはする。
私たち生き物は、どんなに好きなこと、楽しいことでも、疲れてくると楽しめなくなる。それは内容や対象の問題ではなく、状況の問題なのだ。
だからどんなに楽しいことでも、いったん終わる、ということも素敵なことだったりする。
で、リチャージして状況を整えて、また始める。それが「続ける(続く)」ことなんだろう。

だから「むつかしい」を「おもしろい」と思えるのは、体力的にも精神的にも「余裕」「余白」があってこそかもしれない。
正しく努力はしていても、ぎっちぎちでは無理かもしれない。切ないけれど。
アレクサンダー・テクニックで言うところのend-gainingな考え方の中では楽しむ感覚は生じにくいだろう。
だから何かを持続したいなら、「おもしろい」に思えるような生き方をお勧めしたい。そういう「からだの使い方」をお勧めしたい、と思って仕事をしている次第。
超「めんどくさい」けれど。
そこに費やされる手間とプロセスと時間が具体的に想像しちゃうとね。純粋に技術的な手数の多さに対する「めんどくさ」さ。

そういえば、この「めんどくさい」という言葉。
この言葉がレッスン中にクライアントの口から発音される場合、意味合いは「むつかしい」より拒絶風味が強い。

「めんどくさい」が出るときは、自分が自覚しているよりずっと身体的・精神的に疲労している、と理解した方がいい。無意識にぎっちぎちなのだ。
ぎっちぎちなんで、少しでも何かを変えようとすると全体が崩落してしまいそうな感覚を抱えている。新たな手間とプロセスと時間を組み込む余白が見当たらないことに、瞬間で絶望したりする。

ちなみにこういう場合、「疲れていますね」と言っても、たいてい相手からは否定される。
「疲れてなどいない、疲れるようなことは何もしていないし、私にはできていない」というような、「自分は無価値」であるかのような言葉が高確率で返ってくる。

「めんどくさい」に陥っている人は、無意識に「成果主義」に陥っていることが多い。「ふつう」のことをしているくらいで疲れるわけがない、何かの(たいてい「かなり」の)成果を上げるまでは「疲れている」などと発音する自分自身に権利を認めない…という、セルフDVというか、セルフ・ブラック企業化した考え方。成果を上げるまで休まず走り続けるのが普通、終わったら休む、ゴール前に休むなんて怠け者だ…という、謎の「怒り」の宛先が、とりあえず自分になっていることが多い。
たいてい、無意識に。
だから身体が本人の意識の代わりに悲鳴を上げる。

社会的には「まじめ」で「働き者」で、「頑張り屋さん」だったりすることも多いだけに、切ない。
でも、努力家でも、切なくても、痛んでいる最中に何かを「変えろ」とか言うのは申し訳ないけれど、それをそのままにしていていい、とは言えないことはある。
中には自分が払った「自己犠牲」の対価として他人からの「慰め」を回収したがる人もいる。これまた、ほぼ無意識に。でも私はレッスンで「慰め」は提供しない。

言葉を…正確に言うと、言葉に表れたり現れていなかったりする「何か」を…読み間違うと、レッスンはたやすくバトル・フィールドになれる。
お互いたやすく緊張し、興奮できる。この緊張と興奮によって、相手との間に「怒り」「失望」などの嫌な感情がある、と勘違いすることができる。そこからの反動(「なにくそ!」「馬鹿にされたくない!」)でしか行動ができなくなってしまうことすらある。

レッスンだけじゃなく、あらゆる人間関係がそうかもしれない。

この「むつかしい」ことを「めんどくさい」と思わずにいられるくらいに、自分を整えたり、観察したり、余裕を生み出す自己の「使い方」をしていきたいなあ、と思う日々である。

自分とも他人とも争わずに、平和に生きていきたいのであるよ。

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