えこひいき日記

2001年1月8日のえこひいき日記

2001.01.08

成人式の日です。いとこがはたちになりまする。彼女は昔からおしゃれ大好きで、着物も似合うので(日本舞踊をやっていた頃はめっぽういろっぽかったし、最近はお茶もはじめたので、ますます所作に磨きがかかることでせう)、きっとかわいいだろうな。かわいいものを見るのは嬉しい。
しかし自分がはたちのときはどうだったかというと、記憶があまりない。やはり着物を着て、さまざまに写真を撮られた記憶はあるのだが、そういうイベントというか、コスプレちっくなこと以外に何かあったか、というとあまりなにもなかった気がする。今日からおとな、と言われてもよくわからなかった。あんまり「自分のタイミング」じゃない感じでした。個人的には30歳になったときのほうが「おとなになった」という感じがあったなー。これはちょっと嬉しかったのでした。短大で教えている頃、私の学生のメインは19歳だったので、よく「20やー、おばんやー」と騒いでいるのを目撃したけれど、そういうショック度では、私の場合、10歳になったときのことのほうが鮮明に記憶がある。「ああ、これから死ぬまで2ケタだわ」と思ったのを覚えています。

そしてこの日は友人S嬢(彼女の誕生日は1月15日。つまり旧・成人の日である)の「30歳までに30公演」というダンスパフォーマンスの、まさに30回目の公演日で、観にいけることを楽しみにしていたのだが、急用でいけなくなってしまった。ものすごく見に行きたかったのと、ものすごく申し訳ないのとで諦めきれなかった私はS嬢にお願いしてゲネプロ(本番前のリハーサル)を見せていただいた。
彼女の作る作品のテイストは私はとても好きで、いつも気になっているのだが、公演にはなかなか時間の都合がつかなかったりして、ここしばらく観させていただいていなかった。
今回のダンスパフォーマンス「i.d」も味わい深い作品だった。ボディ・パーツと、その個々の動きや特性を一つ一つムーブメントとして取り出していくような作品の進行。時に、あるいは同時に、優雅で、グロテスクで、ご機嫌なボディ・パーツの舞いを見ているうちに、逆説的なようだが、腕なら腕、おしりならおしりという、パーツとしてのアイデンティティを極めていけばいくほど、むしろそのi.dが追求される意味を失うということを感じていた。その意味の出現と消失のドラマにぞくぞくさせられる。皮膚の下の筋肉のうごめき、骨の凹凸、それらが照明の下で様相を絶えず変化させ、違うパーツ、違う側面を訴えつづけている。それと同時に、そのすべてがどうしようもなく、まぎれもなく、「彼女」のからだなのだ。
独自性、個性、i.dを問題にするということは、それすなわち「それ以外のもの」が同時に、とても近くに存在していることを意味する。自己/他者を問うことは、すなわち他者/自己を問うことであるように。例えば「膝関節」というところで大腿部(ふともも)と脛部(すね)が「つながっている」とも「わかれている」ともいえるように。
それともこれは私の職業に基づくきわめて手前味噌なものの見方なんだろうか。

んで、彼女にはお礼と感想など言って、そして言うかどうか迷ったのだが、からだの使い方の面で気になったことを少し言って、帰ってきた。

いつもアーティストに(特に私の職業を知っているアーティストに)、レッスンでないときに、こういうアドバイスをするのはいつもとても迷う。特に彼女とは個人的にお友達でもあるので余計迷う。私が本番前にからだの使い方についてどうのこうの言わなくても彼女はダンサーとして十分に素適だし、作品も仕上がっている。本番前なのである。余計な動揺は与えたくないし、それでなくても本番前は何かと慌しいのだ。もしも私が言って一言で彼女の動きがかえってまとまりを失うようなことになったり、ただのいちゃもんだと思われたらやだなあ…と思うと心の中で小さな冷や汗が流れる。
でも、言っちゃった。ぐるぐる迷った挙句(といっても、多分、時間にしたら数十秒だと思うけど)、そうしたほうが彼女の伝えたいものがもっとよく伝わるし、素適になるんじゃないかという思いのほうが勝っちゃったのだ。そして多分、彼女にとってもそれが一番大事なことで、あと1時間で幕が上がるという状態であっても、動揺材料とかクレームとかではなく受け止めてくれると信じることにしちゃったのだ。彼女は熱心に私のいうことを聞いてくれた。そのことに私は心底ほっとしていたのですよ、S嬢。

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