えこひいき日記
2001年2月21日のえこひいき日記
2001.02.21
「質問」ってなんだろ、と思ったりする。
私だってひとに質問をすることはある。「これ、いくらですか?」とか「お店は何時開店ですか?」とかいう、まるで旅行者のための英会話みたいな内容であることが多いのだが。つまり、私にとって「質問」という会話(あるいは文書)形式で得られるものは純粋に「情報」の域を出ない。
「質問」って、そういうものだと思っている。
だから「情報」ではないことを「質問」という形式で訊かれると困る。「質問」に対する「回答」という形式では答えられないからだ。私自身も、「情報」を得る目的以外のことを「質問」という形式で発信して、満足する「回答」など得られたことはない。
「情報」をどう使うかは、自分のオリジナリティだ。オリジナリティの作り方まで訊かれても、私にはわからない。あなたの個性は私には作ってあげられないもん。
例えば(よくあることなんだけれども)、レッスンの中で「からだの使い方」について「どうすればいいのですか?」などということを「質問」という形式で聞かれても困る。それは言い換えれば、「快適な温度にするには、暖房をつければいいのですか?冷房をつければいいのですか?」と他人である私に訊いているようなものだからだ。大事なのは、あなたが今、暑いと感じているのか、寒いと感じているのか、それでどうしたいのか、どうしたくないのか、ということ。今の自分の状況の何に「?」と思っているか、その「疑問」を大事にすることからしかことは始まらない。
私にできるのは、「暑い・寒い」の判断を飛び越えて「どうしたらいいのか」とあたあたしていたのを、「まあ、まあ」と落ち着いてもらい、暑いのか、寒いのかを感じてみてもらい、その判断が何を基準としたものなのか、それ以外に判断は存在しないのか、考えてみる手伝いをすることだけだ。その価値基準の固定化が、こちらからみて何に起因しているように見えるかという「情報提供」はできる。その結果として、どうするかは、あなたの自由。
でも、「疑問をもつ」ということに慣れていなかったり、それをたんに「悪いこと」のように思ってしまうリアリティが存在することは、私にもわかる。正解することだけが行為の目的のように訓練される機会のほうが多いし、「疑問」が「他の人を否定すること」と混同されたりもするもんね。でも「正解」なんて、やはりただの結果。やることやってればたいがいついてくる。だから、よりよいやり方を選ぶためのアンテナとして、実は「疑問」のほうこそ「宝の山」だなーと、最近ますます思うのである。