えこひいき日記

2001年3月15日のえこひいき日記

2001.03.15

春休みというものに突入したせいなのか、ここ数日フローテーション・タンクに関する問い合わせが相次いだ。

それで思い出したのが、ここにタンクを作る前のことだが、タンクの設計者であるI氏と一緒に奈良の法隆寺まで夢殿を見に行ったときのことだ。夢殿は、何のために建設されたのか謎も多いのだが、ちょっとした瞑想室のようなものだったという説もある。

昔の人が書いたものなどの中に(仏典だったかな?)、こころに迷い事が生じると「夢をみに」すぐさま眠る、という記述があったりするのだが、この、わざわざ「夢をみに」いく、というのがなんだか面白い。つまり、「睡眠」の付属物として、まるで車窓を過ぎる風景のように、「みているけれどみえていない」ものとして夢を「みる」のではなく、夢をみるために「睡眠」という行動をとる、というのが面白い。
同じ行為でも意識の仕方によってまったく違う行為になってしまうわけだが、そのどちらかだけが正しいとか間違っているというのではない。現に毎夜の睡眠の中で私たちはREM睡眠とNON-REM睡眠という性質の違う睡眠状態を繰り返しながら「眠る」という行動を行っている。そう、睡眠は「なにもしないこと」などではなく、また昼間の「活動」と対極にあるものでもなく、区切られはしているが地続きの「活動」なのだ。
ともあれ、昔の人は、起きているときの「今現在の精神状態」では判断しかねることを、睡眠という「セッティングを変えた状況」の中で自分自身に問うてみる、という方法を持っていたみたいだ。
しかし、ひょっとしたら現代の私たちは「眠る」という行動ではもう自己にアクセスしづらいのかもしれない。昼間の情報と刺激の量が多すぎて、いざ眠ると、意識(脳の活動としての)を休ませるほうを優先してしまい(つまりぐうぐう寝てしまう。ギアが壊れて眠ることすら難しい人だっている)、自己とアクセスする回路にエネルギーをまわすことが難しいのかもしれない。
ひょっとしたら「癒しブーム」の背景にはそういう「昼間の時間の過ごし方」(それが必要か不必要かに関わらず、刺激を浴びつづける状況下にあること)によって、起きてるときは起きていることだけで精一杯、眠るときは眠ることで精一杯で、「車窓」を見、それを「見ている自分を」「みる」ことでみえてくる状況を、自らの力で自らのからだの中にセッティングすることが難しいのかもしれない。だからこんなにもグッズや場所や薬や技法が編み出され、ビジネスとして成立するまでになってきたのかもしれない。

そうであったとしても、もとより自分の中にないものは受け入れることも「使う」ことも難しい。タンクも瞑想室も、自分の中にもとより存在するものの働きを「たすける」だけであって、タンクに入りさえすれば、瞑想しさえすれば、何かが起こるというような自動的なものではない。もしも自動化しているとすれば、それは既に「マンネリ化」(それを「する」ことで精一杯という状態)に陥っている可能性があり、すでに「とらわれている」のかもしれない。しかしまた、マンネリズムや依存とは似て非なるものとして、「おこるべくしておこること」「それがおこるということが、あるべきすがたであること」があることも事実だ。例えば過食症や拒食症という摂食障害(依存症)がある一方で、毎日3度、ときにそれ以上の回数、お腹がすいたと感じてもけしてそのことだけでは「異常」でも「依存」でもないように。

私はタンクやレッスンが過度に「神聖視」されるのを嫌っている。過度に「特別視」されるのを嫌っている。そのことによってレッスンを受ける人の態度が過度に保守的になり、閉鎖的になることを嫌っている。それは行き場のない「マンネリズム」(とらわれ)だからだ。

話しを元に戻して、法隆寺に行った時のこと。閉館間際だったために駆け足でお堂の周りをまわったのだが、記憶にある限り、夢殿に窓はなかった。窓の「かたち」はあるのだが、すべてははめごろしなのだ。「これは感覚(というより「外的刺激」と言ったほうが正確なんだが)遮断装置だ」と思ったのを覚えている。何だか嬉しくなってしまった。

フローテーション・タンクはけして特別な装置ではない。例えば、茶室だって「感覚遮断装置」だと思う。スペース的にはかなりコンパクトな空間の中に身をおくことで、かえって「空間」というものを感じたり、狭いのに「無限の空間」を感じたり、灯りを落としたコンパクトな空間の中で逆に精神活動を活性化させるというカフェインを摂取するのだから、これはtravering without moving(これは Jamiroquaiのアルバムのタイトルだけどね)の装置だ。
クラブやバーの照明が暗くしてあるのも、本来、単に「そのほうがそれっぽい」などというマニュアルの踏襲ではなく、何かを「隠したい」からではなく、むしろ「あかるさ」という刺激によって「かくされていたもの」「みえなくなっていたもの」から感覚を解放するためであろう。少なくとも私にとって居心地のいいバー(バーに限らず、レストランとか、お店とか)と居心地のわるいバーの違いって、そこにある気がするのだ。

「トリップ」とか「超越」というコトバのアヤシさにヤラレるまえに、茶道にしても瞑想にしても、そういう「かたち(手順、手法、マニュアル)」を作ろうとして作ったのではなく、あるニーズが「かたち」になったということを、もちょっとマジメに考えてもいいと思うんだけどなー。
それを産みだす「日常」のほうがはるかに数奇でオモシロイよ。

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