えこひいき日記

2001年3月27日のえこひいき日記

2001.03.27

事務所の近くの公園の桜に花が咲いているのを発見。しばし立ち止まって眺めてしまう。

私は桜の木下で大勢で宴会をする趣味はないが、桜の花を眺めるのは好きだ。京都には桜の名所といわれるところが枚挙に暇がないほどあるが、黒々とした幹の色合いといい、儚げでそれでいてどこか凛とした花の風情といい、枝振りといい、どうしてこんなにきれなのかなあ…と思ったりする。

京都以外の土地に住んだのはニューヨークの4年間きりだったが、その期間でも、春になると目が桜の花を探していた。ニューヨークにはセントラル・パークという巨大な公園があり、その中にも桜の木はあるのだが、なにか風情が違う。特に枝振りが。ほんとに「枝ぶり」なのか、ちょっと自信がないが、何かが違うことは確かである。
京都の誇る銘木に北山杉があるが、こんな話を聞いたことがある。北山杉を気候風土の似たドイツの土地に植えてみたことがあるという。すると、杉はあのようにはまっすぐに高く成長せず、途中で曲がってしまうのだそうだ。何が違っていてそうなってしまうのかはまだよくわかっていないらしいが、桜の木にも同じことが言えるのかもしれない。

何かが違っているのに定かには言い難く、しかし長期間に渡って個に影響を与えうるものを「環境」と呼ぶのかもしれない。環境問題、環境ホルモン等の言葉でにわかに取りざたされるようになった「環境」だが、その影響の仕方は長期的、というのが特徴であり、例えばゆくゆく癌を誘発する可能性の高い物質でもそれに触れた「とたんに」痛いとか、不快とかいう感覚が生じるわけでもない。
それとよく似た性質の言葉に「習慣」とか「文化」があるように思うが、どちらも個にとって「あたりまえ」になりやすく、慣れ親しみすぎて知覚しにくいという点でも似ている。「ある」のに「ない」がごとくに扱いがちであるところも。

ときに、瞬間のセンセーションだけを「感覚」と呼ぶ感覚の貧しさに、辟易とすることがある。そのタフさを同時に頼もしいとも思っているけれど。

そうした「環境」に「時間」がどう絡むものなのやら、同じ場所に立ち同じ春の季節に咲く桜も、去年の花とは違う花で、見上げる私も去年の私ではないことを、なぜかやけにしみじみ感じたりするのである。

カテゴリー

月別アーカイブ