えこひいき日記
2001年4月10日のえこひいき日記
2001.04.10
私は相当能天気なのかもしれないが、「声が出ない」という体験はちょっとおもしろい体験だった。さまざまなことを感じた。
ちなみに現在は完全ではないが、回復しつつある。仕事以外では喉を休ませるようにし、紅茶でうがいをし(ある人から強力に勧められた)、花梨や黒蜜の飴をなめつづけた。
一つは、自分の「声」の使用頻度について。
私にとって「声」は「仕事用のメディア」といっても過言ではない使用状況であることに気がついた。レッスンと、仕事上の電話での応対など。
個人的に、私はカラオケもしないし、電話は苦手なので(相手や自分の都合に関係なくかかってくるところが、ちょっと)ごくごく一部の人にしか自主的に電話はしない。用件や話の内容ではなく、「声が聞きたい」人間はほんの少しだし、そういう人たちに対しては「声」以外でのメディアでもコミュニケーション・ルートがある(例えばメールなど)し、「声」がでないことは「言葉」が出ない、「思考」できないことではないので、個人的ダメージは思いのほか少なかった。でももしも、自分の意志をアウトプットする手段が「声」しかなかったなら、ものすごく苦しいだろうな。
ただ仕事の上では大いに不便だし、困るし、タクシーに乗って行き先を伝えるときなどは困ったが。
次に「声」の露出度について。つまり「声」の「めだち度」について。
出ない声を無理やり出すと、ニューハーフか鈴木紗理奈ちゃんみたいな声(ごめんよ、ニューハーフの人、ごめんよ、鈴木さん)になっちゃっていたのだが、致し方ない理由により外でこの声でしゃべったりしていると、けっこう振り返ってこちらを見る人が多かったこと。「へー、意外と耳に届いているんだな」と思った。
そんなことから「見える」ことと「聞こえる」こととでは、どちらのほうが人間の感覚に「めだつ」刺激なのか、などと考えた。考えてみれば、ビジュアルは少なくともみるものがそちらをみないと見えないが、音声はその人がどちらを向いていても聞こえてくるものだったりする。「音」や「声」にはいろんな表情がある。BGMのように、音という刺激が存在しているんだけれど、それ自体をめだたせるのではなく、むしろ存在感を第一線に出さないことによって、他のメディアとのバランスがとれ、場を整えるような「音」もあれば、警笛や非常ベルのように場を切り裂き進入してくる音もある。神経が立っているときは、蛍光灯や冷蔵庫が立てるわずかな音さえ「聞こえて」しまう。知らず知らずのうちに、相当量の音が「聞こえて」生きているんだなあ、などと思ったのだった。そういえば、携帯電話の着信音がメロディー化路線をたどったのも、「音・声」というメディアが人間の感覚に与える刺激性を考慮すれば、リーズナブルな路線だったのかもしれない…等々。
そして街行く人の「(音声としての)声」と「(動作としての)しゃべり」とその他の「表情(顔の表情や歩き方、注意の向け方など)」の関連やバランスも、なんだかいつもより鮮明にみえてくるような気がした。宇多田ヒカルちゃんの曲の中に「ヘッドフォンをしてひとごみの中に隠れると、もう自分は消えてしまったんじゃないかと思うの」という歌詞があったが、自分の現状(声が出にくいこと、無理に声を出すと目立つこと)が自分の意識の表面に際立つと、ヘッドフォンなしでも、「声」を絶つことが自分の「存在」を絶つことのような気がしてきたりする。
ちょうど、いつかの「日記」に書いたけれど、テレビの音声を消して音楽を流しながら映像を見ると「みえてくる」ものがあるように、私の中での声の使い方が変わると、「しゃべる」という動作が別のアングルから見える気がした。例えば、レッスンの中でも、あるクライアントに対してはその人の「はなし(の内容)」を主に聞くが、別のクライアントでは、話の「内容」ではなく話す「動作」だけを見ているほうがよっぽどその人の「言いたいこと」や状況がわかる、という場合もあるのだが、それと同じように、友達と歩いて話していても「友達に」話しているわけじゃない人、口と同じくらい手足や目が動いたりして「話して」いる人、歩くこととしゃべることが両立しづらいらしく、あるリズムで動作を区切ったり息を止めている気配がある人など、「みている」つもりはないのだが、なんだか妙に「みえてしま」ったりした。でも気分は「透明人間」だったせいか、みえていることがあまり苦痛でないことも、なんだか面白かった。
体調はよくなかったんだが、私は基本的に「げんき」なのかもしれない。(とはいえ、外に出ると昼間の吸血鬼のようにくたびれちゃうんだけどね)
もう一つは、「こころづかい」とか「てだすけ」とはなんだろう、ということ。
私が声が出ないとわかると、やたら話し掛けてくる人がいたり、逆にやっきになって私に声を出させまいとする人がいたりした。そのどちらも、その人なりの配慮で、とてもありがたいのだが、でも少し困ったりもした。
やたら話し掛けてくる人が話してくることは「これが喉に効くよ」とか「こうするといいよ」とか「仕事のしすぎだよ」とか、内容はありがたいことばかりなのだが、たいていその表情は私を見ておらず、嬉しそうなのである。
昔、愛媛大学でワークショップを行ったとときに、参加者の女性が泣き出したことがあった。彼女はとてもまじめでしっかりしたひとで、しかしどこか、がんばってそうしてきたようなところがあり、それがワークショップの際に少しほぐれたのだろう、それが涙という「表情」になって出ただけのことで、感情的なことではなかった。しかし彼女は泣くつもりなんてなかったのに「泣いて」いる自分に動揺し始めていたので、話を少し続けたあと、休憩を取った。その頃には彼女も落ち着いていたし、周りの参加者も彼女の涙の意味をそれなりに受け止めているように思えた。そこへ、ある心理学者がとても嬉しそうな顔をしながら彼女に近づいていったのだ。彼は「たいへんだねえ」などと言いながら、また彼女を「泣かせよう」としていた。私は、大好物を見つけた飢えた獣みたいな彼の表情をよく覚えている。
私の脳裏には、ふとその人(というより、その人に代表されるある「タイプ」の人の象徴としての「その人」)顔が浮かんで消えた。
彼に限らず、自分自身の問題に自分では向き合う勇気がなくて、他人の問題を扱うことでそれに代えようとし、しかも自分を残して相手が成長していこうとするのを嫌う人間はどこにでもいる。それしかできないのならしかたがないし、それでも助かる人はいるから、悪いことだとは思わない。
でも、申し訳ないが、私は少し不快だ。
「てだすけ」することとは、その人から「しごとを奪う」ことではない、と、常々思ってはいるのだが、改めてちょっと考えてしまった。